邪馬台国とはなんぞや?(61)

2018.11.6のNO.61が抜けとていたので、追加しておく。(12/24)

オオナムチノカミ 大穴牟遅神・大己貴)
名前の意味や由来について

大穴牟遅神/オオナムチノカミ

オオ⇒大いなる

 ナ⇒己・汝。あなた。土地。
ムチ⇒神様や人の尊称。「~様」
   高貴な人という意味もある。

オオナムチは『大いなる土地の神様』という意味です。

オオナムチはスクナヒコナと共に、国内の平定や国土を経営し、修理をしました。
また、全国を巡り歩いたり、農業や国土の保護、さらに禁厭(まじない)の法も定めました。他にも医薬や温泉の神様ともされ、なんやかんやと沢山の事業を神話の上で残しています。

http://kojiki.co/gods/oonamuchi.html

 

自己流に解釈すれば、このことは大己貴神(おおなむちのかみ)と 大穴牟遅神とは同一神であり、国津神最高神との位置づけとなるのであろう。だから大国主神 とも同一神なる。

 

それがいつの間にか(?)と言うよりも、大己貴神の子孫の鉄の神様の大物主が三輪山に祀られていったのではないのかな。

 

 

 

伊邪那岐命伊弉諾尊)--天照大御神(の勾玉から)--天之忍穂耳命↓下段へ続く

 

 

天之忍穂耳命----天火明命(あめのほあかりのみこと) = 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)-→

 →-(or=)大己貴大神大穴牟遅神大国主神 = (or→大物主神

               

--邇邇芸命(ニニギノミコト)

 

 

そのため国津神大己貴大神大穴牟遅神大国主神)が、天津神葦原中国をお返しすることになったのである。

 

まあ天照大御神などの天津神のおられる高天原は、いったいどこにあったのか、という問題もある。一般的には天上世界にあったような感じもするが、きっと日本のどこかであったのであろう。

 

天孫邇邇芸命は日向の高千穂の峰に天降ったと言われているので、高天原はきっと日向の地のどこかではないのかな。そうでなければ、日向と大和の間にそれほど深い絆は存在しなかった筈である。

 

先の書の261頁にもそのように記されているからには、そう理解してもそれほど間違いはないのではないのかな。

 

 

さて、神武天皇は姫蹈鞴五十鈴との間に三人の皇子を授かっているので、その末子 神沼河耳命

かんぬなかわみみのみこと)を皇太子とされた。日向で生まれた手研耳命(タギシミミ命)を日嗣とはしなかった。日本書紀では、神渟名川耳尊(かんぬなかよみのみこと)と書く。

 

このことは神武天皇に、優れて政治的なセンスがあったことをうかがわせる、と先の書231頁には記されている。何と言ってもに日向で生まれた手研耳命(タギシミミ命)は神武天皇と共に苦労して大和にまで来たのではあるが、大物主の神の血が流れていなかったからだ、と先の書の232頁には述べられている。

 

そのため手研耳命(タギシミミ命)は謀反を起こして、神沼河耳命に殺されてしまう。

 

このことは大物主の孫となる皇子を、次の天皇とすることを世に知らしめたこととなり、よそ者であった神武一行が大和一円に溶け込むことを全面的に意思表示したことと、理解されることになったのである。

 

大和の守護神である三輪山の神の子が、天皇の位につくことになる訳で、地元としては大歓迎となったのではないのかな。

 

しかも神沼河耳命の正妃は、神武天皇の后、則ち自身の母の妹の五十鈴依媛であった。おそらくは年上の后であったことであろう。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(60)

さてここで今一度、日本では、鉄がいつから使われ出したのか、おさらいをしてみよう。

 

ご承知の通り、日本は酸性土壌のために大方の鉄製品は腐ってしまい、なかなか出土しない。

 

その中でも鉄が発掘された遺跡の、次のような表を作成してみた。いい加減なところもあるので、訂正いただければ幸いである。

 

熊本県玉名市の斎藤山遺跡の鉄斧は、中国製の鋳造品を何らかの熱処理を施したものと言われているが、それ以外は(多分)日本で作られたものであろう。いわゆるタタラ製法で作られた鍛造品(?)となろう。

 

縄文晩期には陸稲が栽培され、弥生早期には水稲が栽培されていたと言われているので、鉄器は弥生時代の始まりと共に使われ始めたものと考えられる。

 

と言うよりも曲り田遺跡は、菜畑・板付遺跡よりも古い稲作栽培地だったかもしれないとも言われる証拠となる大陸系(?)磨製石器も出土している。

 

 

 

西暦    項目

時 代

区分

土 器

鉄器出土の遺跡

BC1000

縄文時代

晩期

黒川式

 

BC1000~BC800




早期

夜臼Ⅰ、夜臼Ⅱa

斉藤山遺跡熊本県玉名市・鉄斧)

BC800~BC400

早期

曲り田遺跡(福岡県糸島市、鉄斧)

BC400~AD100

前期

夜臼Ⅱa、板付Ⅰ
板付Ⅱa,b,c

今川遺跡(福岡県津福市、鉄鏃)
山の神遺跡山口県豊浦町、鉄鋤)
扇谷遺跡京丹後市、最古の環濠ハイテク集落、鉄製品・ガラス塊)

AD100~AD300

中期

城の越、須玖Ⅰ、Ⅱ

五斗長垣内(ゴツサカイト)遺跡(淡路島、大鉄工団地、舟木よりやや早)
舟木遺跡(淡路島、大大鉄工団地)、奈具岡遺跡京都府京丹後市、玉造りコンビナート・水晶加工用鉄器)

AD300

後期

 

稲部遺跡彦根市、大鉄工団地)

 

 

 

斉藤山遺跡では、縄文末期の夜臼式土器と弥生初頭の板付Ⅰ式土器が一緒に発掘されると言うので、丁度弥生時代の早期初めの頃のことであろう。菜畑遺跡・板付遺跡は丁度この頃の遺跡と言われている。

 

丁度稲作と同時期に鉄器の使用が始まり、程なくタタラ製法による鉄器の生産も行われたことであろう。稲作と鉄器はセットとして、考えてもよいのではないのかな。

 

神武天皇BC71年、大和南部を平定し、姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされたBC70年頃は、当たり前にタタラ製法で鉄がつくられていたとは言え、やはり鉄を抑えることは最重要課題であった。

 

タタラ製鉄の親玉である大物主の娘である姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされ、大物主と更には摂津の製鉄集団とも絆を深めることが出来たことは、神武天皇に取ってはこの上ない好事であった。

 

大物主は大己貴神(おおなむちのかみ)とも呼ばれ、 大穴牟遅神とも書かれている。

 

これは「大いなる土地・の高貴な人・牟遅」という意味だそうで、葦原の中つ国を平定した高貴な神様と言う事を意味するらしい。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(59)

第十二代景行天皇の時代には、「熊襲が背いて貢物を奉らなかった。天皇は筑紫に向かわれた」と日本書記に記されている、と先の書の260頁書かれているが、それまでは大和朝廷へは貢物を奉っていたと言う事であろう。それまでとは、第十一代垂仁天皇の御代である。

 

邪馬台国と敵対していた熊襲は、邪馬台国が健在の間は大和朝廷朝貢していた、と言う事である。その理由は熊襲の南に存在する日向は大和朝廷の故郷であり、日向と邪馬台国との間に存在する熊襲としては、日向即ち大和朝廷とは仲良くしておく必要があった筈である。

 

ところが邪馬台国大和朝廷に平定されたとすれば、熊襲邪馬台国を恐れる必要はない、だから貢物を奉らなくなった、と言う事である。と推論しているが、こちらの方が熊襲にとっては十分に厄介なことでは無かったのかな。北と南に大和朝廷の勢力が存在しているからである。

 

だが熊襲にとっては北の邪馬台国が瓦解したことで、一件落着として大和朝廷への貢物を止めてしまったものと思われる。

 

そこで大和朝廷は、熊襲征伐に乗り出すことになる。第十二代景行天皇の御代のことである。

 

熊襲には「八十梟師(たける」と言う猛者が居たからだが、景行天皇の御代に熊襲退治が行われると言う事は、その前の垂仁天皇の時代に邪馬台国は瓦解したと言う事であり、先の小生が述べた「景行天皇の時代に邪馬台国大和朝廷に併合されていった」のではなく、その前の第十一代垂仁天皇の時代に邪馬台国大和朝廷に併合されたことになろう。

 

なお熊襲退治向かわれた景行天皇は、しばらくの間日向に行宮(あんぐう、高屋宮)を設けてお住まいになっている。日向は天孫降臨の地であり大和朝廷とは縁の深い所であった。だから最古級のものから大型のものから千個以上の前方後円墳が存在している。日向と大和との間には深い絆が存在しているのである。

 

と言う事が先の書長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))の257頁以降に記されていた。

 

従って邪馬台国の併合は、第十二代景行天皇の時代ではなくて、その前の第十一代垂仁天皇の時代であった。・・・と謹んで訂正申し上げる。

 

 

それから先の九州の地図で、吉野ケ里遺跡を狗奴国としているが、これも間違いで狗奴国はやはり熊襲で、卑弥弓呼素(くこちひこ)こと「菊池彦(きくちひこ)」ではないのかな。

 

位置関係を見ると、現在の大牟田市熊本市の中間に菊池川が流れ、その上流に菊池市がある。このあたりの菊池平野に狗奴国は存在していたのではないのかな。「くこちひこ」こと「菊池彦」が狗奴国の王様だったわけだから。

 

 

とすると吉野ケ里の存在は、女王国の一員でないので、他の有力な一国であったのか。とすると吉野ケ里は、邪馬台国と狗奴国に挟まれて相当神経をすり減らしていたことと思われる。更には熊襲の「八十梟師(たける」には攻め込まれなかったのか、という疑問も残る。

 

位置関係からすると女王国に近い存在だが、熊襲から攻められずに独立国として存在していたと言う事か。

 

しかし熊襲はその後大和朝廷に背いたために、日本武尊(やまとたけるのみこと)熊襲征伐を受けることになる。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(58)

なお、2018.10.15NO.45神武天皇の年表を実年で記しておいたが、それを次に示す。

 

 

1.BC96年、宮崎県高原町狭野でご誕生、狭野命(さぬのみこと)と呼ばれる。

 

2. BC82年、7.5才で皇太子、狭野命は16才の頃阿多の吾平津媛と結婚、タギシミミ命とキスミミ命がご誕生。

 

3.BC74年、23才の時、東征の決意を述べられる。(45/2=22.5

 

・・・ ↑↓この間、東遷を実行する。

 

4.BC71年、大和南部を平定し、姫蹈鞴五十鈴媛を正妃とされる。

 

5.BC70橿原宮初代天皇として即位。27才。皇紀660年=BC70

 

6.BC56年、神沼河耳命(綏靖天皇)がご誕生。41才。

 

7.BC33年、神武天皇64才でご崩御される。(127/2=63.5

 

 

ご承知のように、神武天皇という「漢風諡号」(かんぷうしごう)は奈良に時代の淡海三船と言う人が名づけてものである。一般的には、記紀では次のように呼ばれている。

 

 

神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと) 古事記

神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと) 日本書記

始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) 日本書記

若御毛沼命(わかみけぬのみこと) 日本書紀

彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 日本書紀

狭野命(尊)(さぬのみこと) 日本書紀

 

 

何れにしても、邪馬台国の女王卑弥呼が「親魏倭王」の金印紫綬を賜ったのは、AD239のことであるので、神武天皇即位はBC70年であり、天照大神はさらに古く神武の五代前の時代となるので、

 

邪馬台国が東遷して大和朝廷となったとか、

卑弥呼天照大御神であるとか、

邪馬台国はヤマトにあったとか、

神武東征は博多から出発したとか、

倭国=日本などと言う事は、

 

更には、銅鐸文化圏と銅矛文化圏があったとか、

 

などと言ったことは、全て間違っていることであり、言ってみれば、「真っ赤な嘘」と言われても仕方がないことである。

 

だから鳥影社の「天皇家卑弥呼誰も気づかなかった三世紀の日本」と言う書籍は、当ブログの書き始めの頃に面白いと思って購入したが、今となっては明らかに✕(ペケ)である。読まなくて幸いした。

 

卑弥呼や台与は倭国邪馬台国の女王であったが、その邪馬台国は、第十二代景行天皇の御代(AD291即位~AD320崩御)の日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国征伐や熊襲征伐などの中で、大和朝廷に併合されていったものと思われる。

 

だから卑弥呼天皇家の基となる女王なんぞでは、絶対にない。小説ならいざ知らず、歴史書とすれば、今となれば、やはり✕(ペケ)であろう。

 

 

また真藤豊氏の「魏志倭人伝はすべてを語っていた」(文芸社)は370頁近くの大著であり、小生も感心しながら読ませて頂き、古代史に興味をそそられた一書であるが、邪馬台国畿内に立って論を進めているので、これも史実を述べているものとは言い難いものである。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(57)

その前に邇邇芸命天孫降臨を次のように記して(2018.10.01,NO.35)、韓国はKoreaの韓国ではない、と記した。

 

 

かれここに天の日子番ひこほの邇邇芸ににぎの命、天の岩位いわくらを離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威いつの道き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき

・・・・・・・・

ここに詔たまわく、「此地ここ韓国に向ひ笠沙の御前みさきにま来通りて、朝日の直ただ刺す国、夕日の日照ひてる国なり。かれ此地ここぞいと吉き地ところ」と詔りたまいて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。

 

 

ここでもう一度、韓国(からくに)がKorea馬韓国ではないことを記したいと思う。

 

これも「先の書」の126頁からその解説があるので、説明してみよう。

 

ここは韓国に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通じていて、朝日のまともに指す国であり、夕日の明るく照る国である。ここは真に良い所だ。」が、その口語訳であるがどうも韓国の意味が解らなかった。

 

先の書では、日本書紀を引用して次のように述べている。

 

日向の襲の高千穂の峰にお降りになった」、「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて吾田国の長屋の笠沙御崎にお付きになった

 

日本書紀にはこのように書かれているとしている。即ち「韓国」は「痩せた不毛の地」なのである。

 

更には(岩波の日本書紀には)「そ宍シシ空国を、頓丘ヒタオから国まぎ行去トワりて」と書いてある、と言う。

 

その意味は「もともと少ない背中の骨の周りの肉すらないような、荒れて痩せた不毛の地をずっと丘続きに良い国を求めて歩かれて」と言う事であった。

 

火山灰土のシラス台地は農地に適さない何もできない「カラの国」と言う意味なのであり、そのため「邇邇芸命は笠沙御崎に行った」のである。

 

この古事記の「韓国」とは「空国むなくに」がもともとの意味(字)であり、「空」を「むな→から」と呼んだ結果、いつの間にか「からくに韓国」と当て字されていってしまったのである。と当時に「韓国岳」は「空国岳」がもともとの意味(漢字)であり、「不毛の土地にある山」という意味が本来のものである。

 

北九州の向かいに朝鮮半島があり、現代では韓国が存在しているので、その韓国と向き合っているとあさはかにも理解してしまったものと思われる。

 

当時は朝鮮半島の南岸には韓国は存在していなかった。狗邪韓国と言う倭人の国がが存在していたのであるから、このことは以前にも述べておいたのでご承知のことと思うが、「韓国」とはKoreaではなくて「からくに空国」が正解であり、これだと正しく意味が通ずるのである。

 

まあ、丁度今の韓国はまさに「からくに空国」であるので、その昔からKoreaのことを「空国からくに」とはよく言い当てたものである、とは言い過ぎでもなかろう。

 

 

次に神武関連の九州地図を掲げる。

f:id:altairposeidon:20181030232020j:plain

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(56)

Wikipediaには天孫降臨については、次のように記している。

 

 

天孫邇邇藝命の誕生[編集]

天照大御神高木神高御産巣日神)は、天照大御神の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」『古事記』)と言った。

天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の日子番能邇邇藝命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者將降裝束之間 生一子 其名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也」『古事記』)と答えた。邇邇藝命は高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。

それで二神は、邇邇藝命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。



     猿田毘古[編集]

邇邇藝命が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。

 

   天孫降臨[編集]

邇邇藝命の天降りに、天児屋命布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。

さらに、三種の神器八尺瓊勾玉八咫鏡天叢雲剣)と思金神手力男神天石門別神を副え、「この鏡を私(天照大御神)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい思金神、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」(「邇邇藝命者 此鏡者同我御魂 欲祭此者 當如拜吾前 尊崇而祭之 次 思金神者 取持前事 輔其為政」『古事記』)と言った。

これらの二柱の神は伊勢神宮に祀ってある(註)登由宇気神伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県(さなながた)に鎮座する。

天児屋命中臣連(なかとみのむらじ)らの、布刀玉命は忌部首(いむべのおびと)らの、天宇受売命は猿女君(さるめのきみ)らの、伊斯許理度売命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの、玉祖命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの、それぞれ祖神である。

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫日向高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

天忍日命天津久米命武装して先導した。天忍日命大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに→本来の意味は空国ムナクニ転じてカラクニに向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが、どちらの場所が比定されるかは定説がない。

なお高千穂町天岩戸神社には、天照大御神が隠れていた「天岩戸」と伝わる洞窟がある。

注記.天岩戸伝説は高千穂町以外にも複数あり、高千穂地区限定のものではない。また、記紀では天の岩戸の洞窟は高天原にあるとしている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/天孫降臨

 

 

(註)

これらの二柱の神は、上記の文脈上、天照大御神と思金神(おもいかねのかみ)を指しているように思われるが、伊勢神宮に祀られている神は「天照大御神」と「豊受大神」である。

 

豊受大神は、古事記では、豊宇気毘売神と表記され、登由宇気神とも称されるとWikipediaには書かれているので、文のつながりがよくないので、どこかで一文が抜けているかもしれない。

 

又は「これら二柱の神」とは、違ったことを表現しようとしているのか。小生には説明する力がないので、悪しからず。

 

 

 

2018.10.02NO.36のブログでは次のように記したが、

 

『ただし「そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき」と、邇邇芸命が降臨なされた「竺紫つくしの日向ひむか」の「竺紫つくし」の意味は、不勉強につき小生には説明出来ない。きっと筑紫の意味ではなくて違う意味の修飾語なのであろう。』

 

この「きっと筑紫の意味ではなくて違う意味の修飾語なのであろう。」は、真っ赤な間違いで、まさしく筑紫の意味である。

 

ご承知のように、筑紫は九州の古語であり、「竺紫つくしの日向ひむか」は九州島の日向と言う意味であるので、謹んで訂正申し上げる次第である。

 

 

天孫降臨されたのは、天孫邇邇芸命であるが、それよりも前に饒速日命が降臨していることになるが、饒速日命天火明命(あめのほあかりのみこと)として邇邇芸命の兄であれば、饒速日命天孫となろう。

 

しかしながら、饒速日命神武天皇と会合して、同じ天孫族であること確認したとされているが、饒速日命邇邇芸命の兄とすれば、神武天皇より三代も前の人物となるので、神武天皇27才でありその三代前とすれば、100年位前の人となってしまう。だから、きっと饒速日命の三代前くらいの人が天降ったのではないのかな。

 

だから天火明命(あめのほあかりのみこと)=邇邇芸命の兄とすれば、饒速日命天火明命の三代後の子孫なのであろう、と考えれば辻褄が合うことになる。

 

そして天火明命(あめのほあかりのみこと)=邇邇芸命の兄→-饒速日命→-(or=)大己貴大神 大物主神となれば、国譲りも合点が行くものとなる。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(55)

ここに大己貴大神(おおなむちのおおかみ)の名が出ているが、これが大物主神の別の名であるとされている。

 

更に饒速日命(にぎはやひのみこと)の名前も見られるが、饒速日命とは大己貴神の祖先神の名前のようである。

 

と言うのも天孫が降臨する前に、天照大御神から十種の神宝を授かり天の磐船(いわふね)に乗って河内の国に天降ったとされている神で、その後大和国に移ったとされている、とはWikipediaに記されている。

 

しかもその名は、「天照国照彦火明櫛玉饒速日」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と言い、2018.10.10NO.42で紹介した天之忍穂耳命の子の邇邇芸命の兄天火明命(あめのほあかりのみこと)と同一の神である、としている。

 

とすると下記の系図からわかるように、饒速日命天孫の系統の人物となる。

 

 

 

古事記)  (日本書紀

伊邪那岐命伊弉諾尊)--天照大御神(の勾玉から)--天之忍穂耳命↓下段へ続く

 

 

天之忍穂耳命----    アマツヒダカヒコホノニニギノミコト

               -- 天津日高日子番能邇邇芸命----

萬幡豊秋津師比売命-   コノハナサクヤヒメ     カムアタツヒメ    --火遠理命

ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト 木花之佐久夜毘売(神阿多都比売)-  ホオリノミコト

高御産巣神の娘)↓     (大山津見神の娘) 吾田、阿多は笠沙の御崎のある大隅半島の地名

高御産巣神は造化の三神の一人   イザナギ・イザナミの神産みで生れる。

 

火遠理命(火折尊・山幸彦)-

ホオリノミコト             --天津日高日子波限建鵜草葺不合命--

豊玉毘売命 -------   アマツヒダカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト  --磐余彦尊

トヨタマヒメノミコト()           玉依毘売命------------  イワレビコノミコト

綿津見大神の娘)          タマヨリヒメ(

綿津見大神は伊邪那岐伊邪那美の子

 

 

饒速日命は、天照大御神に命じられて天孫降臨よりも早く葦原中つ国(豊葦原の瑞穂の国、日本)へ天降りされた神であるということなのだが、天孫降臨した邇邇芸命の兄と同一神であるとすると、天孫降臨は、饒速日命の天降りよりそれほど遠くない時期のことなのであろうか。

 

 

このことをわかりやすく系図にすると次のようになる。

 

 

 

古事記)  (日本書紀

伊邪那岐命伊弉諾尊)--天照大御神(の勾玉から)--天之忍穂耳命↓下段へ続く

 

 

天之忍穂耳命----天火明命(あめのほあかりのみこと) = 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)-→

 

               →-(or=)大己貴大神 大物主神

 

            --邇邇芸命(ニニギノミコト)

 

 

 

また、神武天皇がヤマトに攻め入った時に抵抗したのがナガスネヒコであった。この戦いでは神武側は大いに苦戦した。神武の兄の五瀬命長髄彦ナガスネヒコ)の放った矢に当たり死ぬことになる。太陽に向かって戦ったのでよくないと、紀伊半島を回り、紀国(和歌山県)から攻め込む。そして神武天皇八咫烏(ヤタガラス)の助けを借りて優勢に戦うことが出来た。

 

そして、饒速日命長髄彦ナガスネヒコ)の妹を妻としていたが、神武天皇天孫であることを知り、お互いに天孫の証として天の羽羽矢(はばや)などを見せ合いそれを確認する。

 

そして饒速日命長髄彦の首をはねて、神武天皇に帰順する。

 

こうして神武天皇大和の地に拠点を設けることが出来たのである。

 

饒速日命物部氏の祖神にあたる。

(続く)