1872年6月12日(明治5年5月7日)品川-横浜間の鉄道が開通
1872年11月4日(明治5年10月4日)群馬県、官営富岡製糸工場操業開
始、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナの指導で設置された器
械製糸工場。全国から数百人の工女が集められ、製糸の技術を習得していっ
た。彼女達は後に全国の製糸工場で指導を行い製糸技術を広めていった。
1873年1月10日(明治6年)徴兵制を制定し、国民の兵役義務を定めた。
これには2年前に制定された戸籍法の存在があったから可能なことであった。
そして、1873年7月28日(明治6年)地租改正法を公布した。これは従来の
米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。この法令は、上諭(じょう
ゆ、天皇のお言葉)と地代(土地の収穫物・年貢から土地の価格を政府が認定
し、その価格)の3%を地租とする、と言うたったの1条の法律であった。そして
強圧的な徴収が図られたため各地で暴動が頻発した。そのため1877年(明治
10年)1月に地租を3%から2.5%へと減額した。この地租は地券の発行により
確認された土地所有者(地主)を納税義務者とする全国統一のものであった。
そして税収の見込みがつくようになると、強圧姿勢は徐々に緩和され、1880年
(明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了し、約7年に亘る大事業は終了し
たのである。
これにより明治政府は安定した税収を確保することが出来ると同時に、個人の
土地所有の権利が認められたこととなり、封建的な土地所有の形態から個人の
土地の所有権が確立することにより財産として流通することとなったのであり、
日本における資本主義体制の確立の基礎となったのである。
1873年10月25日(明治6年)には、征韓論に端を発した明治六年政変が
おきている。先に李氏朝鮮に対して幾度となく使節を派遣したことは述べたが、
更に、当時における日本大使館に相当する機関である倭館の入口に「野蛮な
国」と書かれた張り紙を張られるなどの殊更非礼な行為を受け続けた為、日本
国内には武力行使も辞せず、との強硬意見も聞かれるようになる。西郷は表向
きは武力行使も辞せずとの意見を表明するものの交渉を重視し、西郷自身が交
渉の為朝鮮に赴くと言う提案をしている。しかし、岩倉使節団派遣中には重大な
改革を行わないと言う盟約に反して、韓国派遣を閣議決定してしまう。(8月17
日)しかし明治天皇はこの取り決めを基に「待つように」とこの上奏を却下した。
大久保は朝鮮半島問題よりも外交案件(琉球帰属問題、樺太・千島問題、小
笠原諸島問題、不平等条約改定など)が存在し、更には日本にはまだ戦争を
遂行するだけの国力が備わっていないと言う判断から、征韓論の不利を説き延
期を訴えた。10月14、15日の岩倉帰国後の閣議は紛糾し議長の太政大臣三
条実美が進退窮まって倒れてしまう。右大臣だった岩倉具視が太政大臣代理と
なり、10月22日西郷の意見を退け征韓論をお流れにした。このため西郷等は
辞表を提出し、10月25日受理され西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新
平、福島種臣ら参議5人を初め、懇意だった軍人・官僚達も辞職してしまった。
又以後も混乱が続き大久保が政府の実権を握ることとなる。これらのことが引
き金となり、自由民権運動や士族反乱などが発生し西南戦争へと続くこととなる。
これが明治六年政変である。
(続く)