ヨーロッパと日本(31)

岩倉具視は、大久保利通にも重用されたフランス留学の経歴を持つ官僚

井上毅こわし)に意見を求める。井上毅ドイツ帝国を樹立したプロシャ式

倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成する。大隈重信は大隈で、岩倉

よりも上位の左大臣有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)に極秘に意見書を

出す。その中で彼は、イギリス流立憲君主国家を主張した。伊藤は漸進的な

改革を主張し華族制度を改革して上院の設置を求めていた。

1881年(明治14年)北海道開拓使の廃止方針が決まり、北海道開拓使

官の黒田清隆開拓使の官有物を安値で払い下げることを決定した。この払い

下げに政府内でも批判が起こり、大蔵卿の大隈重信が反対した。7月には新聞

にもすっぱ抜かれると、大隈が情報基ではないかと疑われた。そして政府批判

が強まり自由民権運動も一層盛り上がっていった。これを機に、伊藤は事態収

拾を図るため、自由民権運動側と結託したとして「大隈追放」に動き出す。伊藤

博文は井上毅らと協議し、明治天皇行幸に大隈が同行している間に、大隈の

罷免、払い下げの中止、10年後の国会開設などの方針を決めてしまう。

天皇行幸から帰京した1881年10月11日に御前会議の裁許を得て、これ

らのことを公表する。「国会開設の勅諭」は、1881年10月12日に発せられ

る。近い将来議会制度の確立を約束して、民権運動の先鋭化を抑えようとした

ものである。このことを、明治十四年の政変と言う。

野に下った大隈は国会開設に備え1882年(明治15年)3月に立憲改進党を結

成し、10月21日には東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設している。

1882年3月14日(明治15年)伊藤博文らは岩倉具視ら政府の命を受け

憲法調査の為ヨーロッパ各国へと派遣される。伊藤は、ベルリン大学やウィー

ン大学の法学者に師事し、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したも

のでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようと言うから

には、まずその国の歴史をを勉強せよと言うアドバイスを受ける。その結果

ドイツの憲法体制が最も日本に適すると思うようになる

1883年8月3日(明治16年)帰国する。そして井上毅憲法草案の起草を

命じ、憲法(翌年、制度)取調局を設置し憲法制定と議会開設の準備を始め

る。

1885年12月22日(明治18年)内閣制度創設され、伊藤博文が初代

内閣総理大臣となった。しかし当時の内閣総理大臣の地位や職務などは明確

に決められてはいなかった。

1887年5月(明治20年)憲法草案が書き上げられ、以後幾多の検討・修正

が加えられ1888年4月(明治22年)に成案がまとめられた。そして伊藤は枢密

院を設けて、憲法草案の審議を進め1889年1月(明治22年)審議は終了した。

ここに明治憲法が完成したのである。

1889年2月11日(明治22年)大日本国帝國憲法は、天皇黒田清隆

相に手渡すという形で発布された。この形から欽定憲法(君主が自分で定める)

と呼ばれる。同時に皇室典範も定められている。また同日、議員法が公布され

大日本帝国憲法によって立法府として設置された帝国議会の組織・運営・権限・

議員について定められている。議員に関してはこのほか、貴族院令、衆議院

議員選挙法も制定された。

1890年11月25日第1回帝国議会が召集され議員法はこの日から施行

れている。

1890年11月29日には大日本帝國憲法が施行されている

日本国憲法の発布で、、日本はアジアで初めて近代憲法を有する

立憲君主国家となったのである。

(続く)