国慶節に思う。(13)

このことは、日本としては真剣に考えなければならない。マスキー法のように、法

制化して強制されて、何とか日本の自動車メーカーは技術開発に努力して排ガ

ス規制をクリアしてきた例を基に、CO2の25%削減も何とかなるであろう、など

(うつつ)を抜かす技術馬鹿も実際には存在している。これがまた問題なの

である。


マスキー法は1970年12月に改正された法律で、1975年以降に生産される

自動車の排気ガス規制であり、次のようなものである。
         

1975年以降の生産車は、一酸化炭素CO2、炭化水素HCの排出 量を1971年型の1/10以下にする。
  
1976年以降の生産車の窒素酸化物NOXの排出量は、1971年型の1/10以下にする。
          

そして、未達成車の販売は認めない、と言うものであった。しかしこの規制はク

リア不可能と言われるほど厳しいもので、自動車メーカーからの反発も激しく結

局実施期限を待たずに1974年にアメリカでは廃案となっている。日本では1978

年(S53)から、マスキー法と同じ基準での規制が昭和53年規制として実施された。

アメリカではその後排気ガス規制自体は少しずつ進み、1995年にようやくマス

キー法基準に達した。しかし排気ガス対策で遅れをとったアメリカの自動車業

界は、その後衰退の一途をたどり、今日の米国自動車産業崩壊の兆しとなった

のである。


マスキー法の対象は自動車と言う工業生産品目に対する排気ガス規制であり、

そのため自動車メーカー関連だけが頑張ればよかったものであったが、鳩山の

「1990年比で2020年までに、温室効果ガスを25%削減する」と言うものは、日

本国全体に関連するものであり、マスキー法などとは全く比べ物にならない。製

造メーカーだけがCO2を25%削減すればよい、と言うものではないのである。

それはそれで頑張ればよいのであるが、生産、物流、交通、商業、エネルギー、

教育、医療、福祉、防衛、政治、経済、社会活動すべてに関係するものである。

しかもどのようにCO2を削減してゆくかと言った技術的、経済的、社会的な検

討は、全くなされていないものである。ただ、日本だけが約束するものではな

く、各国が参加して国際的に削減してゆく枠組みの構築が条件だ
、と言うの

が唯一の救いである。ただし、救いになるには、それなりの条件がある。中国や

インドにも、それ相応のCO2の削減目標が課せられなければ成らないのであ

る。また仮に、日本が25%削減が出来なかった時には、百何十兆円も金を出し

て排出枠を購入し、更に途上国の支援のために相当の資金提供を行わなけれ

ば成らないのである。そんなところに金を出すくらいなら、日本国内の不況対策

に金を回してもらいたいものである。


ただ単に技術的に革新が起こり、削減が達成出来る様になる筈であり、新しい

投資も呼び景気回復にもなる、などと言った視点だけで25%削減に賛成する

輩は、日本人の風上にも置けない単純人なのである。きっとこんな単純な輩が

もっぱら民主党に投票したのであろう。これは恐ろしいことである。自動車が電

気自動車や燃料電池車に変われば事足りる、などといった単純なことではない

のである。それはそれで大変難しいことではあるが、CO2を25%~35%も社

会全体で削減しなければならない と言うことは、場合よっては日本から工場がな

くなりかねない事態をも想定されるのである。


Wikipediaによると)1990年と言う年は、3月に不動産融資の貸し出し規制が

施行され、株価が暴落し長く続いた好景気の終わりを告げる年となった。同年末

にはバブルが崩壊し日本経済の「暗黒の10年」に突入するのである。更に好景

気の中、石油ショック以降日本の不断の省エネ努力が実を結び、その結果が

現れ始めた年
にもなったのである。


第一次石油ショック
は、1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争が契

機となった。OPEC石油輸出国機構が原油公示価格を1バレル3.01ドルから

5.12ドルに引き上げを発表し、更に同年年末には1974年1月からは更に

11.65ドルに引き上げる決定を下した。石油価格の上昇はエネルギーを中東

の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かし、日本では便乗値上げなどで

インフレが加速し投資需要も縮小し、高度経済成長が終焉した。翌年の1974

年には-1.2%
と言う戦後初めてのマイナス成長を経験することとなった。

第2次オイルショックは、1978年イラン革命によりイランでの石油生産が中断

したことから引き起こされた。そして1980年のイラン・イラク戦争を機に、原油

価格は30~40ドルまでに上昇した。


そのため日本は
国を挙げて省エネ技術を開発していったのである。その結果

1990年頃には、省エネ対策が相当進んだのである。その年が京都議定書

の基準年
となったのである。


そして欧州では1989年11月9日ベルリンの壁」が突如として取り壊され、

東西冷戦も薄れてゆき、世界の誰もが想像しない速さで東西ドイツは正式に

統一
された。1990年10月3日のことであった。そして東欧の経済は混乱状

となり、この年がCO2の排出量のピークとなったのである。そのためこの年

を基準年とするとEUには非常に都合がよく、数値目標は如何様にも設定できる

状態であった、と言う。1990年基準では、日本はそれまでの血の滲むような努

力は省みられず、反対にEUは左団扇で高い削減目標を設定出来たのである。

鳩山の25%削減目標には、EUでは褒め称えている傍らで、舌を出してほくそ

笑まれたのである。そのため麻生首相は、2005年を基準年としたのである。


(続く)