日韓併合100年(7)

さて、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」 と

は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて戦わ

れた「日清戦争」の日清講和条約(「下関条約」)の第1条の条文である。

なぜ下関条約の第1条に「朝鮮国の独立自主」何ぞが明記されていたのか。

それは、このことがこの日清戦争の日本にとっての最大の目的だったからであ

る。


当時の世界情勢を見ると、清国はイギリス、フランスなどの列強に蹂躙され、

更にロシアはアジアの権益を狙って南下を続けていた。


この50年程前の1840年11月から始まり1842年8月に終結したアヘン戦

は、イギリスの圧倒的な勝利で終わったが、このことは「眠れる獅子」と言わ

れた清国が「張子の虎」であることを世界に示すこととなった。これに伴いイギリ

南京条約を結び、多額の賠償金と香港を割譲させ、広東から上海までの5

港の開港を認めさせ、更には治外法権関税自主権の放棄、最恵国待遇をもぎ

取っている。そしてフランス、アメリカ、ロシアなど列強も次々と清国と不平等条

約を結び、租借地を増やしていった。(2008.9.12,靖国神社に参拝しよう、を参

照のこと)


この不平等条約の形態は、その後の日本の徳川幕府との和親条約、修交通商

条約などとして、日英、日米、日仏、日露、日欄などとの間で結ばれることとなっ

た。世に言う1858年前後に調印された不平等条約である。この不平等条約

改定は明治政府の悲願であったが、日露戦争に勝利してようやく改定すること

が出来たものである。(2008.10.14,ヨーロッパと日本(5)を参照のこと)


そしてロシアは、満州及び朝鮮半島への勢力拡大を目指して1890年シベ

リア鉄道
の建設に着手していた。そしてウラジオストックからハバロフスクまで

のウスリー鉄道は1897年に完成する。すなわちシベリア鉄道は朝鮮半島の間

近まで延び、ロシアは朝鮮半島を勢力化におくべく当時の李朝朝鮮と接触してい

た。朝鮮がロシアの勢力下に入れば日本の独立は極端に脅かされることとな

り、明治政府の緊張は極度に高まった。


当時李朝朝鮮清国の属国であった。李朝朝鮮は清国以上に退廃、衰退、混

乱していた。清国としても列強から圧迫され朝鮮に手を差し伸べる余裕はな

かった。もしこのまま朝鮮が清国の属国のままで推移すれば、朝鮮も列強の

に落ちる
ことは火を見るよりも明らかであった。その朝鮮に触手を伸ばしていた

筆頭がロシアであった。そのためにも日本は朝鮮を清国から開放して、独立国と

して世界に認めさせることがどうしても必要と認識していた。このことは日本の

国益にもかなう悲願とも言うべきものであった。


しかし清国は日本を仮想敵国と想定し、朝鮮半島の支配を宗属関係から保護

属邦関係
へと強化し、日本を威嚇していた。朝鮮の独立を目指していた日本に

対して、清国は軍隊を朝鮮に送って常駐させ、実権を握っていた摂政の大院君

李朝末期の高宗李太王の実父)を逮捕連行し、3年間にわたって抑留までして

いる。


このときアメリカ政府は、「朝鮮清帝国従属国家であり、半島における何世

紀にもわたる封建的国家としての支配は、清国によって承認された」と、その属

国関係を認めている。

中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年9月調印)には、朝鮮の宗属関係に

ついて、「古代から属国であるので、清国政府とのすべての問題における交通

の規範は固定されており、変更の必要はない」とまで記してある。

これが当時の国際常識であり、現代の韓国人学者が当時の中国との「友好・同

盟関係」などと主張するのは、非常識で全くの荒唐無稽そのものなのである。


このように朝鮮は清国の属国であり黄文雄は朝鮮のことを千年属国と言って

いるが、朝鮮はいつから中国の属国となったのか。


それには朝鮮の歴史を紐解いてみる必要がある。


(続く)