日韓併合100年(10)

まったくもって朝鮮という国は、下劣で属国根性丸出しの国であると言うことがよ

く分かる。今もってその根性は、全く変わっていない。


中国では、元の衰退に伴い1351年には紅巾の乱か起こり、1356年から

1362年にかけて高麗は紅巾賊に侵入される。更には1350年ごろからは倭寇

にも盛んに苦しめられる。そのため倭寇や紅巾賊などとの戦いの中から力をつ

ける武将たちが現れ、その中の一人李成桂が、クーデターを起こし高麗王を倒

して、1392年自ら国王に即位する。ここに高麗は滅び、「李氏朝鮮」が建国さ

れる。李成桂女真族出身と言われ、高麗時代には女真、漢、渤海その他異

民族が多数帰化しており、官僚や武人として朝鮮文化などに多大の影響を与え

たと言われている。


中国での紅巾賊の反乱の中からは、貧農出身の将領朱元璋は南京を根拠に

長江流域を統一し、1368年を建国している。李成桂は即位後すぐに明に

朝貢
し、権知(クオンジ)高麗国事としての地位を認められるが、明から国号変更

の要請を受け「朝鮮」と「和寧」の2案を提案し、「朝鮮」を指示され「権知朝鮮

国事
」(朝鮮王の代理の意、執政)に封じられる。国号を朝鮮とすることは許され

たが、朝鮮国王と言う印璽は下賜されずしかも「権知朝鮮国事」は銀印であっ

た。「倭奴国(漢の倭の奴の国王)」は金印であったが、朝鮮のものは銀印

である。これは属国の証なのである。そして独自の暦の使用は許されず天朝

の年号
、すなわち中華の暦を使用し「正朔(暦)を奉じ」ていたのである。いわゆ

る喜んでその統治に服していたと言うことなのである。そして念願の金印を宗主

国の明から賜ったのは第2代恵帝(在位1398年~1400年)の時代であったと

言う。


1402年明の永楽帝が即位する。永楽帝の死後と次の子、孫の二代が明の最

盛期であったが、15世紀から16世紀にかけては、モンゴルからの進攻や中国

沿岸部を倭寇が脅かすようになり、北虜南倭(1520年代~1590年代)と言わ

れる混乱の時代となる。1583年には今の満州女真族ヌルハチが明から

独立して後金を建国(1616年)している。


そして、1592年文禄元年)と1598年慶長3年)の豊臣秀吉の朝鮮征伐

などがあり、明と李氏朝鮮の連合軍が豊臣秀吉遠征軍と戦っている。


李氏朝鮮親明背金外交を展開したため、1627年後金に全土を侵略さ

れ、後金にも服属する。丁卯胡乱と言う。


そして後金は1636年には国号をとする。


そして1636年には清への服従と朝貢、明への出兵をを求められる。これを拒

否した朝鮮は再度清軍に侵入され(丙子胡乱)、明との断行、清への服従、朝

鮮王子を人質、莫大な賠償金を取られ、三度跪き、九度頭を地にこすり付ける礼

をし、清皇帝を敬う恥辱を味合わされる。この清との服属関係は日清戦争の下

関条約が締結されるまで続いたのである。


そのための財政は破綻し、各地で反乱が起き、清の進攻も激しさを増し、明

の農民出の李自成の軍に北京を占領され、1644年に明の皇帝は自殺しに

は滅亡
する。


同年、明の遺臣の要請により(後金)は李自成を破り、北京に入関し中国支

配を開始する。清は明を破った李自成を討伐し円滑に明の後を継いだため、漢

民族からも好意的に受け入れられた。


1681年
に、康熙帝は、雲南、広東、福建の三藩の乱を鎮圧し、1683年には

台湾を制圧する。そして、北モンゴルチベット東トルキスタンなどもその支

配下に置いた。しかしこれらの地域は間接統治で、緩やかな関係であった。


その大清帝国1840~42年アヘン戦争ではイギリスに大敗し、衰退の道

を辿(たど)ることとなる。その属国の朝鮮においておやである。

(続く)