言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外
交関係を築こうとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独
立を認めても、清国をはじめ世界は朝鮮を清国の属国と認めていた。例えば、
1885年にイギリスが朝鮮半島南端の巨文島を占領した時には、イギリスは李
朝には通告せずに、イギリス駐在の清国大使の曾紀沢に連絡し曾紀沢もそれ
を李朝政府には連絡することなく占領を了承している。国土変更も清国の裁量
しだいだったのである。1885年(明治18年)と言えば、江華島条約の9年後
のことであり、その第1条には朝鮮は自主の国だと記されているのである。
このように列強は直接朝鮮と外交関係を持とうとしたため、清国は朝鮮管理を
強化したのである。
江華島条約(1876年・M9年)の5年前の1871年(明治4年)には廃藩置
県を実施し(この年の12月に宮古島の住人が台湾に漂着している)、翌1872
年(明治5年)には琉球王国を廃止して琉球藩を設置する。1874年(明治
7年)には台湾出兵(牡丹社事件)を行っている。 そしてその年の10月には日
清両国間互換条約が調印され、琉球の日本帰属と台湾の清国帰属が認めら
れる。1879年(明治12年)に明治政府は軍隊と警官を派遣し琉球藩を廃止し
鹿児島県に編入し、同年中に鹿児島県から分離し沖縄県を設置している。この
ような動きのある中、清国は朝鮮管理を強化せざるを得なかったのである。
この一連の琉球に関する動きを「琉球処分(第1次及び第2次)」と呼ばれて
いる。
ちなみに話はそれるが、1919年(大正8年)に中国福建省の漁民31人が遭
難し尖閣諸島に漂着したところを、石垣村の住民らが熱心に看病し、全員を生還
させている。このため中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られている。その文
面には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島」との記載がある。
和洋島とは現在の日本の尖閣諸島の魚釣島のことである。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/syasin.htm などや
http://www.youtube.com/watch?v=boVrB2uAP-8
などを参照されると良い。
さて話を朝鮮に戻すと、この琉球の日本帰属が清の朝鮮外交に大きな影響を与
えることとなる。清は朝鮮の属国解消を恐れ、朝鮮と西洋列強との条約締結を
促進したのである。そして米英独と修交通商条約を結ぶこととなる。しかし朝鮮
政府内で力を得た「開化派」は清国に対する対応の違いから分裂することとな
る。また清国の属邦のままでよいとする「守旧派」(事大党、大に事ツカえると言
う意味)と「開化派」(独立党)とが勢力争いを続けていた。朝鮮宮廷内でも高宗
の実父の興宣大院君らと高宗の妃の閔妃(びんぴ)とが対立し、1883年
(明治16年)閔妃が大院君一派を追放する。閔妃は当初開国政策を採り、
1876年(明治9年)の日朝修好条規(江華島条約)は彼女の下で締結され
ている。閔妃は日本から軍事顧問を招き新式軍隊を育成していたが、旧軍の不
満に大院君らの勢力が加担し1882年(明治15年)に閔妃暗殺を企て、漢城
で大規模な旧軍兵士の反乱が起こる。反乱軍は閔妃一族の開化派高官たちを
殺傷し、更に攻撃の矛先を日本人や日本公使館にも向け、花房公使以下28名
は17名の死者と多数の負傷者を出しながら焼き討ちされた公使館を捨て済物
浦(さいもっぽ)へ非難し、英国測量船に保護され命からがら長崎へ帰還する。
閔妃はといえば事変をいち早く察知し、朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の下
に転がり込む。清国軍は反乱鎮圧と日本公使館護衛を名目に漢城(ソウル)に
駐留し大院君を天津に軟禁し、閔妃一族は政権を取り戻し開化政策から親清
政策へと転換してしまう。
(続く)