さて、この「日韓併合100年」と言うテーマは、2011年2,3,4月と3ヵ月ほど中断
していたが、そろそろ続きを始めようと思っている。
前回は1月31日のNO.67であった。
丁度カラカウア王がサンフランシスコの病院で多分毒殺されて、アメリカが「ベイ
オネット憲法」を作らせて、ハワイを併合しようとしていた矢先であった。ハワイ
王国は妹のリリウオカラニ女王が王位を継いでいた。
「アロハ・オエ」とは、侵略されて行く祖国ハワイを悲しんで、女王が作詞作曲し
たものである(諸説あるが、そう言ってよいであろう)。「あなたに愛を」と言う意
味である。
この話は日露戦争の「旅順港閉塞作戦」から、米西戦争でのアメリカのキューバ
・サンチャゴ湾閉塞作戦に移り、そして米西戦争は太平洋のスペイン植民地へ
と拡大し、ついでにその話はアメリカのハワイ侵略へと飛んでいる。但し時系列
的には、米国のハワイ侵略が先で、米西戦争や米比戦争はその後のことであ
る。アメリカはフィリッピン分捕り作戦を、(対英戦争は独立戦争と言うが)決して
フィリッピン独立戦争とは呼んでいない。
さてその女王の依頼で明治政府がハワイに軍艦を派遣した1893年と言えば、
日清戦争の直前であり、1900年は、義和団が北京を占拠し8カ国連合軍が中
国で「ドン・パチ」やっている時であり、ロシアはロシアで満州を占領する時であ
る。
おさらいの意味で、主要な出来事を年代順に並べて、その時代背景を振り返っ
てみよう。
1887年 ハワイ「ベイオネット憲法」
1894/7/25 豊島沖海戦、日清戦争開始。
1895/3/20 第一回講和会議、日清戦争終了。
1895/4/23 露独仏の三国干渉。
1898/2/15 米国戦艦メイン号、ハバナ湾で沈没
1898/3/27 旅順大連租借条約(ロシア)。
1898/5/1 米国、フィリピンのスペイン艦隊撃破する。比島占領
1898/7 ハワイの主権、米国に委譲させる。
1989/6/20 米国、グアム島占領
1898/7~8 米国、キューバ、プエルト・リコを占領する。
1898/7 ハワイの主権が米国へ移譲
1900/4 米国、ハワイ領土法公布(ハワイを併合)
1900/6/20~8/14 北京の55日、北進事変(義和団の乱、8カ国連合軍)。
1900/7/16 ロシアが東三省(満州)を占領する。
1900/11 第2次露清密約、露の満州駐留と要塞建設。
1901/9/7 北京議定書(清国、8カ国と和議)。
1902/1/30 日英同盟調印、発効。
1902/4 満州還付に関する露清条約、満州より撤退を約束。
1903/1 東清鉄道支線完成(チタ→ハルビン→旅順)。
1903/4 露、第2回目の撤退実施せず。
1903/7 シベリア鉄道全通(東清鉄道経由)、対日戦争の準備完了。
1903/8 日露交渉(満韓交換論)まとまらず。露が拒否、露としては満韓全て自国のもの。
1904/2/6 日本、露国と国交断絶。
1904/2/8 仁川沖でコレーツと小競り合い、日露開戦。同夜旅順港急襲するも失敗。
1904/2/10 日本、露国に宣戦布告。
1904/2/24~5/2 旅順港閉塞作戦、3回にわたるが失敗。
1904/2/23 日韓議定書調印。
1904/8/19 旅順攻防戦(~1905/1/1)
1904/10/15 バルチック艦隊、リバウ港を出港。
このように見てくると、アメリカは日清戦争のドサクサやスペインとの独立戦争に
便乗して、やりたい放題でハワイまで侵略してしまった感じである。アメリカは太
平洋を内海とするために、その拠点としてハワイ諸島が必要だったのである。
これを次のように考えると、このときのアメリカの覇権獲得の歴史は、現代に生
きてくる。
例えば、カリブ海を東シナ海と見立てると、キューバやプエルト・リコは尖閣諸島
であり、沖縄である。ハワイに進出したアメリカ人は日本に大量に来ている不法
入国の中国人であり、大量の中国人留学生と見ることが出来る。そして北海
道や日本各地の土地を大量に買いあさり、漁船にカムフラージュさせたスパイ
艦を巡視船にぶつけたり、日本の土地を買いあさり、中国人をして日本に帰化
させて、内から日本を占領しようとしている。しかも鳩山、管と言った媚中腰抜
け政権が日本にいるから、尚更やり放題だ。中国は正にアメリカのやった手法
そのものを日本でやろうとしているのである。日本は今東日本大震災で、青息
吐息である。中国はこのチャンスを逃すことはないであろう。復旧、復興もさるこ
とながら、中国人の暗躍に目を光らせてもらいたいものだ。
(続く)