さて、旅順港急襲は誠にもって不甲斐ない結果に終わってしまった。ロシア旅順
艦隊は名前の通り、旅順港に引きこもってしまった。そのためバルチック艦隊と
この旅順艦隊とが合同されれば、日本の連合艦隊といえども勝ち目はない。
日本はあせった。日本海での制海権の確保は必須事項である。日本は三国干
渉で、1895/11/8に旅順を泣く泣く清国へ還付している。しかし、それをロシア
は1898/3/27に、賄賂で旅順大連租借条約を結び、手に入れている。そして旅
順は一大要塞に仕立て上げられていた。そのため水雷艇攻撃や湾口への機雷
敷設を行うが、いずれも旅順要塞の攻撃の前に失敗する。そのため旅順艦隊
の撃滅は至難の業となってしまっていた。そこで考えられたのが、旅順港閉塞作
戦であった。
今考えれば、狙い撃ちされるばかりの旅順口へ船を沈めることは、成功しがた
いことなのであるが当時は、日本海の制海権を得るためにはあらゆることを考
えたのであろう。閉塞作戦は三次に渡り決行された。第1次が1904/2/14、第2
次が3/27、この閉塞作戦では「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(後に中佐
特進)が戦死している。あの「杉野はいずこ」と3度杉野孫七上等兵曹を探し
た後、撤退するボート上でロシアの砲撃の直撃を受け戦死している。3度でなく、
2度か4度の捜索であれば死なずにすんだかもしれない。日本で始めて「軍神」
となっている。遺体はロシア軍により丁重に埋葬されている。広瀬少佐の飛び
散った肉片の痕跡が残る兵の帽子は、靖国神社の遊就館に奉納されている、
とWikipediaに記されている。広瀬少佐のロシア駐在武官時代に交友があった
アリアズナは、広瀬の死を知り喪に服したと言う。享年36才。
旅順港閉塞に失敗した連合艦隊は機雷も敷設する。1904/3/31(グレゴリオ暦で
は4/13)に機雷敷設中にロシア駆逐艦と遭遇し、これを撃沈する。すると「マカロ
フ爺さん」と親しまれていたロシア太平洋艦隊司令長官は、戦艦5隻、巡洋艦4
隻を率いて、旅順港より攻撃に出てくる。そして作戦後旅順港に帰投する途中マ
カロフ司令長官の旗艦「ペトロバヴロフスク」が機雷に接触し爆沈し、戦死して
いる。このため旅順艦隊の士気は相当落ちたと言う。
第3次閉塞作戦は1904/5/2の夜実施されたが、失敗に終わっている。
しかも5/15には旅順口外をパトロール中に、マカロフ中将が日本艦の航路を予
想して設置した機雷により、戦艦2隻を失っている。連合艦隊には、戦艦は6隻
しかなかった。その6隻は、戦艦三笠・朝日・富士・初瀬・敷島・八島であるが、
そのうちの2隻・初瀬(15,240t)と八島(12,514t)を失ったのである。「初瀬」はロ
シア海軍に対抗するため三笠・朝日・敷島と共にイギリスに発注され、1901/1/
18に就役、当時の世界最大の戦艦であった。八島は1897/9/9に就役、日本海
軍での初めての近代的戦艦であった。同じ航路でのパトロールは危険であると
され、パトロールの航路を変更する矢先の出来事であった。こういうことは、四
の五の言わずに気が付いたら即実施するものである。しかも更にこの5月に
は、一等巡洋艦春日、二等巡洋艦吉野をはじめ、砲艦、水雷艇など6隻が衝
突、触雷などで沈没している。まさにマカロフの祟りといわれた。
しかしながらバルチック艦隊が回航してくる前に、日本は、旅順艦隊を撃滅しな
ければならない。そのため旅順港閉塞作戦に失敗した海軍は、陸軍に対して陸
上よりの旅順要塞の攻撃を要請することとなる。そのため乃木希典中将
(1904/6/6大連の西の塩大澳に上陸、そして大将昇進)を司令官とする第3軍
を編成して旅順攻囲戦を敢行する。この頃も陸海軍の間の仲はそれほど良いも
のでもなかったと思われるが、第一回の旅順口閉塞作戦の失敗を検証して、な
ぜすぐさま陸上からの攻撃を検討しなかったものかと悔やまれる。何事にも
視野の広さと柔軟性が必要である。しかしそんなことに構っている暇はない。
6隻しかない戦艦の内2隻も失っている。しかも16隻もの商船も沈め、海上輸送
力も減っている。日本の存亡の時である。ようやく日本海軍は、陸軍に、旅順要
塞の攻撃を依頼することになる。
(続く)