言っておくが、このロシアとの戦いはもちろん日本の独立のためではあるが、直
接的には朝鮮のためであった。ロシアはバルカン半島で1877年4月~
1878年3月の露土戦争で勝利して地中海への出口を確保出来たかに見え
たが、1878/6/13~7/13、ベルリン会議での列強の圧力でそれを潰されてしまっ
た。その結果ロシアは海に出るために、今度は1900/7/16に義和団事件を口実
に朝鮮を手に入れようと、満州に進出したのである。この日露戦争での日本の
勝利がなければ、朝鮮は地球上から必ずや消えていたであろう。
だから日露戦争(1904/2/8~1905/9/5)は、朝鮮戦争だったのである。
'10/12/28のNO.49を参照願う。
さて、陸軍は陸軍ですでに1軍と2軍が満州に展開している。極東ロシア軍との
野戦決戦を控え、旅順に回せる余力は余りない。しかしそこから2個師団を抽出
して、第3軍を編成したのだ。約5万人の兵力となる。しかも旅順要塞の情報は
日清戦争当時のままで、最新式の大要塞に変身していたことも知らなかったし、
その上近代的攻城戦の何たるかも、弁えていなかったと、Wikipediaなどには記
されている。
しかし日本陸軍は、開戦後すぐに旅順攻略を決めていた。1904/3/14のことで
ある。国交断絶が、1904/2/6で旅順港閉塞作戦の開始が、同2/8であるからほ
ぼ一ヵ月後のことである。そして、第3軍の編成は1904/5/27のことである。旅
順攻略は、満州へ向かう主に2軍の後方安全を確保するためであった。
を主任務とする第3軍を編成したとあります、と「旅順攻略戦略史」には記されて
いる。 http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/ryojyun-2.htm
1904/6/6、遼東半島の大連よりの塩大澳に上陸した乃木大将率いる第3軍
は、6/26より進撃を開始し、まず7/4に歪頭山、剣山を攻略し、7/28には長嶺山
の線まで進出し、露軍を鳳凰山、大孤山まで後退させる。そして7/30には鳳凰
山、大孤山の線まで占領することが出来た。しかし損害は甚大で、8/3にほぼ旅
順包囲網が完了する時点までの死傷者数は、4,300名に達し、南山での戦いも
含めると9,000名近い数に上っている。
遼東半島の塩大澳は、遼東半島の南岸、黄海側に長山群島と言う島々があ
るが、その近くの大蓮よりに位置している。なお地図は次のURLを参照されると
よい。
岡本綺堂の日露戦争従軍(塩大澳)
http://kidojibutsu.web.fc2.com/contents/jyugun.html
奥保カタ大将率いる第2軍は、1904/5/5にここから遼東半島に上陸し、南下し
旅順を孤立させるために、体制を整えた上で5/25に金州城を攻め落とし、その
南にある南山要塞を攻めたのである。しかし艦砲射撃や陸軍砲兵隊の砲撃に
もかかわらず、ロシア陣地からは機関銃弾が雨霰の如く降り注ぎ第2軍は1日
で4,387名の死傷者を出す大損害を受ける。大本営も一ケタ間違えたのではな
いかと訝(いぶか)しがるほどであった。しかしながら日本のこの執拗な攻撃にロ
シア側は弾薬も尽きかけて、ようやく旅順へ撤退したので日本軍の手に落ちるこ
とになる。日本軍は始めて機関銃の洗礼を受け、多大な代償を払わされること
になったのである。日本軍はロシア軍の2倍の兵力で攻めたのであるが、4倍
以上の死傷者を出している。いわば肉弾をたてにして攻め立てたのである。願わ
くは、この戦いの教訓を旅順攻撃に最初から生かす柔軟性が欲しかったもので
ある。この戦いで乃木大将の長男、乃木勝典少尉が戦死している。後に乃木
大将は南山の地を訪れ、「乃木三絶」と言う詩を詠んでいる。金州城は日清戦
争でも戦場となっているところである。('10/11/23,NO.27参照)
山川草木 うたた荒涼
十里 生臭し 新戦場
征馬進まず 人語らず
金州城外 斜陽に立つ
これは「NO.B-219 ~金洲・南山の戦いと乃木大将の心象風景」を参照している。
http://90326214.at.webry.info/201011/article_4.html
(続く)