そして旅順では、大孤山に観測所を設けた海軍陸戦重砲隊が旅順港を砲撃し、
被弾した旅順艦隊はウラジオストクへ逃げようと8/10旅順港を出る。日本連合
艦隊は黄海でこれを迎え撃ち、二度にわたり砲撃戦を行うも一隻も沈めることが
出来ずに、日も暮れ見失い、旅順港に逃げ込まれてしまう。これが黄海海戦で
あるが、旅順艦隊(第1太平洋艦隊)は旅順に引きこもり出てくることはなかっ
た。そのため、旅順攻略は益々以って、必須のこととなる。
第3軍は、6/30には第9師団の増加発令を受けている。そして日本軍は鉄道を
修復して、弾薬などを補給し総攻撃の準備を完了させる。そして8/16に乃木大
将は軍使を仕立てて敵将ステッセル中将に「非戦闘員の避難と開城勧告」を行
うも、ステッセルはこれを拒否。そして1904年8月19日朝6時を期して、旅順
総攻撃を開始する。もちろん攻城砲による集中砲撃の上、突撃を行った。
第1師団は西より「大頂子山」を、第9師団は北より「盤龍山堡塁ほうるい、と
りで」、第11師団は東より「東鶏冠山堡塁」を攻撃するが、その何れもが屍を累
々とかさねるだけで失敗をする。ロシア軍の新式兵器である機関銃の前に、肉
弾戦は全くの無意味であった。この時点では、日本軍はロシア軍の程度を日清
戦争当時の清国兵よりかは、少しマシくらいにしか思っていなかったかも知れ
ない。如何に敵情視察を、常日頃から怠らないことが大切であるかを、如実に示
すものである。現に今も中国、ロシア、朝鮮と言うならず者国家に囲まれている
日本では、これら3国の敵情視察は最重要事項であるが、特に民主党政権は鳩
山と言い、管直人と言い全く以って国を守り保全すると言う意識に欠けている。
困ったものだ。
攻撃状況の図などは、次のURLなどを参照するとよい。
http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen1.htm
旅順要塞攻略戦①~③
そして
この惨状を「日露戦争 概説4」(http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai
-nitiro4.html)では、次のように記している。
(8月)24日朝 乃木大将らが双眼鏡でのぞいていると、明け行く光の中に次々
と姿を現すには、斜面にとりついて倒れた無数の日本兵の屍ばかりであった。
新式兵器である機関銃を駆使するロシア軍の前に、第3軍司令部はついに攻
撃中止を命じた。主防御線では盤竜山東、西堡塁を占領するに留まって失敗
した。ある聯隊では軍旗護衛兵若干を除いて、聯隊長以下全員が戦死すると
いった状況であった。
結局第3軍は死傷者続出と不足する弾薬状況を考慮し、8月24日第1次総攻
撃の中止を発令する。
これに懲りた第3軍は、強襲から正攻法による坑道作戦に変更して行く。これは
時間は掛かるが、はるかに犠牲は少ないものとなった。しかし壕を掘りつつ邪魔
になる前進陣地への攻撃が、9/19に行われる。水師営の南堡塁や東南の龍眼
北堡塁を攻撃し、激戦の末翌日占領するが、海軍の要請による旅順港を見下ろ
すことの出来る203高地への攻撃は、取りつ取られつの激戦を強いられ、苦戦
の後9/23退却する。しかしこの結果ロシア側に203高地の戦略性に注目され、
防備を固められてしまう。
このように歩兵による強襲は犠牲が多く、近代要塞のコンクリートを打ち砕く性
能のある攻城砲を必要とした。尤も日本陸軍は海岸線に配備されている口径
28糎の沿岸砲の使用を、日露戦争開始直後から攻城砲として使用する考え
があった。ここに来て、28糎砲を要望する現場の声が高くなり、28糎砲を使うこ
とになる。この巨大な沿岸砲を設置するコンクリート台は普通3週間を必要とし
たが、この旅順においてはそんな余裕はない。日本工兵はそれを9日で完成さ
せた。そしてこの28糎榴弾砲は1904年10月1日に初試射が行われ、この旅順
では全6門で敵陣地への砲撃が開始され、多大な効果をもたらした(最終的に
は18門となる)。なお榴弾砲とは、短砲身・短射程の曲射弾道の大砲を言い、
カノン加農砲は直射(平射砲)を行うため砲身長が長いことで区別されるが、
現在では加農砲でも曲射を行うようになっている。そして榴弾とは、砲弾の中に
炸薬が埋め込まれているものを言う。
その間も坑道掘削(トンネルでなく開放型)は進み、ロシア側も集中砲火で妨害
した。夜間となれば探照灯を照らして射撃している。
(続く)