そして1904年10月26日、28糎(榴弾)砲を使用して、第2回総攻撃が開始
された。28糎砲の威力はすばらしく各堡塁に大損害を与えたが、ロシア側の反
撃は激烈を極め、歩兵突撃を敢行するが主要目標とした松樹山、二龍山、東
鶏冠山北の3堡塁などの永久堡塁へは損害を与えることが出来ずに、10月
31日に第2回総攻撃は中止される。この3永久堡塁への坑道はいまだ未完成
であった。日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍は
戦死こそ616名と日本の6割であったが、負傷は4,453名と1.6倍に上ってい
る。しかしこのとき旅順艦隊は黄海海戦ですでに修復不能状態であった、
とWikipediaには記されている。日本海軍はバルチック艦隊の影におびえ、陸軍
の旅順攻略に最大の期待を持っていたが、すでに旅順艦隊は使い物ではなく
なっていた。しかしこの旅順攻防戦は、ロシア軍に厭戦気分をもたらしたのでは
ないかと、小生は推測している。少なからず次に控える会戦に対する悪影響を
ロシアにもたらしたのではないかと、確信しているのである。
そのバルチック艦隊は1904年10月15日、リバウ港を出港している。海軍
は気が気ではない。そのため陸軍は海軍から矢のような催促を受けることにな
る。内地の参謀本部は、そのため、旅順港を見下ろせる203高地の攻撃を決定
するが、満州軍総司令官大山巌や参謀長の児玉源太郎はこれに反対であっ
た。連合艦隊は、バルチック艦隊との決戦の前に、内地での艦艇の整備・修理
が必要であった。そのため203高地を占領して観測所を設け、旅順港を攻撃す
ることを希望していた。第3軍には、11月11日には精鋭の第七師団が内地よ
り増援された。こんな状況の中で、第3回旅順総攻撃は、11月26日に開始さ
れた。この総攻撃は、松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3堡塁への正面攻撃で
あった。しかしことごとく撃退されたため、11/26の夕刻に3,100名の特別編
成の白襷隊による夜襲を、松樹山第4堡塁にかけるがサーチライトの照射を
受け失敗する。しかも機関銃で武装した要塞への白兵突撃は、無謀と言うより
他はない。しかしそれを承知で突撃した勇敢な日本兵と、それを指令し指揮をし
た日本人将校の一途な魂に敬意を表するものである。近代国家を目指した当
時の日本人の心意気こそが、ロシア軍を弱気にさせた要因のひとつであること
は紛れもないことであろう。今の東日本大震災に打ちひしがれ無策な管政権
に、煎じて飲ませたいものである。
正面攻撃に失敗した第3軍は、11月27日、ようやく攻撃目標を203高地に変
更する。攻撃は28日より開始されるが、これまた、一進一退、失敗続きとなる。
11月29日には新着の第七師団も投入されるが、一進一退を繰り返す。そのた
め児玉源太郎総参謀長が、山東半島の煙台から12月1日に作戦指導のため
着任する。児玉は重砲や攻城砲の配置換えや部隊の補充を要請し、12月4日
早朝より203高地に総攻撃を加え各堡塁を占領し、山頂に機関銃を配置しロシ
ア軍の反撃を撃退し203高地を12月5日、完全に占領することが出来た。
203高地(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6)
日本軍の戦死5,052名(露5,308名)、負傷11,884名(露12,000名)と言う大激
戦であった。そしてすぐに港内の軍艦への砲撃を開始し、残存艦を全滅させた。
これで連合艦隊も内地に戻り、整備や補充が出来たのである。しかしまだ旅順
には永久堡塁が残っている。松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3堡塁などだ。
第3軍は12月10日、東鶏冠山北堡塁へ攻撃を開始する。
そして12月15日、旅順要塞の実質的司令官であったコンドラチェンコ少将
が、日本軍の放った28糎榴弾砲の直撃を受けて戦死する。コンドラチェンコは
要塞知識のない司令官のステッセル中将に旅順要塞作りのほとんどを任されて
おり、人気も高かった。コンドラチェンコの死はロシアにとって相当な痛手であ
り、日本にとってはこの上もない好事であった。その後は日本軍の作戦はとん
とん拍子で進む。
(続く)