この文部省唱歌は、まさに旅順開城の様子を忠実に表したものである。
このURL↓には、良馬の写真もある。是非参照されるとよい。
http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen3.htm
乃木大将の長男勝典は、1904/5/27、第2軍に所属し南山の戦いで戦死して
いる。そして二男の保典は、1904/11/30、第3回旅順総攻撃の203高地で戦死
している。旅順要塞がなかなか落とせなかったことに、軍内部にも、また全国民
にも乃木に対する非難が高まってゆく。そして乃木を第3軍司令官から更迭する
案が浮上するが、御前会議において明治天皇が反対を表明され乃木の続投が
決まるということもあった。
また旅順要塞は、1904/8/19の第1次総攻撃から1905/1/1の旅順要塞ステッセ
ルの降伏まで、4ヶ月半を要している。そして15,390名の死者、43,814名の負
傷者を出して陥落させたことになる。
(「日露戦争 概説4」http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html より)
「ねずきちの ひとりごと セヴァストボリの戦いと旅順要塞戦」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-820.html には、「セバストポリ要塞戦」のこ
とが記されています。セバストポリ要塞は、ロシアの黒海艦隊の母港で当時とし
ての難攻不落の要塞でした。そして旅順要塞と比較して、このセヴァストポリ要
塞のことが記されていますので、少し小生の独断と偏見でまとめてみます。
セバストポリ要塞は、クリミア戦争と第2次世界大戦で夫々戦場となっている。
まずクリミア戦争の発端は、黒海沿岸に居住するギリシャ正教徒(スラブ人)の
保護を名目に、ロシアが当時はトルコ領であったバルカン半島へ進駐したことに
始まる。ロシアは1853/7にモルドバからルーマニアの黒海沿岸(ワラキア)に軍
を進め、反トルコ勢力と共にトルコ軍を攻めた。これを見た英・仏がトルコを支援
する。1853/11には、ロシア黒海艦隊はトルコ黒海に面するシノップ軍港を攻め
トルコ艦隊を撃滅し、艦砲射撃でSinopシノップの町を焼き払う(シノップの
虐殺)。
バルカン半島がロシアの手に落ちると、地中海はロシアの勢力圏になりかね
ない。黒海からはボスポラス海峡、ダーダネルス(チャナッカレ)海峡を通ってロ
シアの黒海艦隊が自由に航行することになる。イギリスはエジプト(からインド)、
フランスは北アフリカへの海上輸送として、地中海は重要な海上交通路であっ
た。そのため1854/3英仏はトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告する。オー
ストリアもロシアに抗議し、ルーマニア(ワラキア)に進駐しロシアは後退する。そ
の後連合軍はクリミア半島のロシア黒海艦隊の基地、セヴァストポリ軍港を攻
撃することになる。クリミア半島はウクライナの、黒海に突き出た菱形の半島で
ある。その先端の西側にセヴァストポリ要塞がある。
1854/9連合軍6万はクリミア半島に上陸、1855/3にはサルディーニャ国(今のイ
タリア)も連合軍に加わり、さしものセヴァストボリ要塞は1855/9に陥落する。し
かし1855/11にはトルコの東部、アルメニア国境近くのカルスKarsをロシアは占
領するが、1856/3のパリ条約で講和が成立し、ロシア、トルコ共に黒海に艦隊
を持つことが禁止され、1861年にはサルディーニアがイタリアを統一している。
と言ったところであるが、ここで一寸要塞の話から横路に逸れてみる。
これは明らかにロシアの南下政策そのものである。スラブ人の保護とは名ばか
りで、地中海への出口を確保したかっただけなのである。そのために英仏はト
ルコと同盟し、ロシアの頭を抑えたのである。
この20年後にロシアとトルコは、1877/4~1878/3に再び露土戦争を戦って
いる。'10/12/28のNO.49を参照願う。このバルカン半島での2度にわたる敗北
で、ロシアは最終的には沿海州、朝鮮に目を向けてくるのである。
ロシアの南の海を目指す執念は恐ろしいほど強い。このクリミア戦争
(1853~1856年)の後、ロシアは、東では1858年のアイグン条約、1860年の
(アロー号事件による)北京条約で沿海州を手に入れ、1878年には露土戦争
に結果的に負けて、1900年の義和団事件(北清事変)を口実に、再度地中海か
ら東に目を向け、朝鮮を手に入れんがために満州に進駐することになる。そし
て日露戦争へと繋がって行ったのである。
(続く)