日韓併合100年(74)

この文部省唱歌は、まさに旅順開城の様子を忠実に表したものである。

このURL↓には、良馬の写真もある。是非参照されるとよい。

http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen3.htm


乃木大将の長男勝典は、1904/5/27、第2軍に所属し南山の戦いで戦死して

いる。そして二男の保典は、1904/11/30、第3回旅順総攻撃の203高地で戦死

している。旅順要塞がなかなか落とせなかったことに、軍内部にも、また全国民

にも乃木に対する非難が高まってゆく。そして乃木を第3軍司令官から更迭する

案が浮上するが、御前会議において明治天皇が反対を表明され乃木の続投が

決まるということもあった。


また旅順要塞は、1904/8/19の第1次総攻撃から1905/1/1の旅順要塞ステッセ

ルの降伏まで、4ヶ月半を要している。そして15,390名の死者、43,814名の負

傷者を出して陥落させたことになる。


(「日露戦争 概説4」
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html より)


「ねずきちの ひとりごと セヴァストボリの戦いと旅順要塞戦」

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-820.html には、「セバストポリ要塞戦」のこ

とが記されています。セバストポリ要塞は、ロシアの黒海艦隊の母港で当時とし

ての難攻不落の要塞でした。そして旅順要塞と比較して、このセヴァストポリ

塞のことが記されていますので、少し小生の独断と偏見でまとめてみます。


セバストポリ要塞
は、クリミア戦争と第2次世界大戦で夫々戦場となっている。

まずクリミア戦争の発端は、黒海沿岸に居住するギリシャ正教徒(スラブ人)の

保護を名目に、ロシアが当時はトルコ領であったバルカン半島へ進駐したことに

始まる。ロシアは1853/7モルドバからルーマニア黒海沿岸(ワラキア)に軍

を進め、反トルコ勢力と共にトルコ軍を攻めた。これを見た英・仏がトルコを支援

する。1853/11には、ロシア黒海艦隊はトルコ黒海に面するシノップ軍港を攻め

トルコ艦隊を撃滅し、艦砲射撃でSinopシノップの町を焼き払う(シノップの

虐殺
)。


バルカン半島がロシアの手に落ちると、地中海はロシアの勢力圏になりかね

ない。黒海からはボスポラス海峡、ダーダネルス(チャナッカレ)海峡を通ってロ

シアの黒海艦隊が自由に航行することになる。イギリスはエジプト(からインド)、

フランスは北アフリカへの海上輸送として、地中海は重要な海上交通路であっ

た。そのため1854/3英仏はトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告する。オー

ストリアもロシアに抗議し、ルーマニア(ワラキア)に進駐しロシアは後退する。そ

の後連合軍はクリミア半島のロシア黒海艦隊の基地、セヴァストポリ軍港を攻

撃することになる。クリミア半島ウクライナの、黒海に突き出た菱形の半島で

ある。その先端の西側にセヴァストポリ要塞がある。


1854/9連合軍6万はクリミア半島に上陸、1855/3にはサルディーニャ国(今のイ

タリア)も連合軍に加わり、さしものセヴァストボリ要塞1855/9陥落する。し

かし1855/11にはトルコの東部、アルメニア国境近くのカルスKarsをロシアは占

領するが、1856/3パリ条約で講和が成立し、ロシア、トルコ共に黒海に艦隊

を持つことが禁止され、1861年にはサルディーニアがイタリアを統一している。


と言ったところであるが、ここで一寸要塞の話から横路に逸れてみる。


これは明らかにロシア南下政策そのものである。スラブ人の保護とは名ばか

りで、地中海への出口を確保したかっただけなのである。そのために英仏はト

ルコと同盟し、ロシアの頭を抑えたのである。


この20年後にロシアとトルコは、1877/4~1878/3に再び露土戦争を戦って

いる。'10/12/28のNO.49を参照願う。このバルカン半島での2度にわたる敗北

で、ロシアは最終的には沿海州、朝鮮に目を向けてくるのである。


ロシアの南の海を目指す執念は恐ろしいほど強い。このクリミア戦争

1853~1856年)の後、ロシアは、東では1858年アイグン条約1860年

アロー号事件による)北京条約沿海州を手に入れ、1878年には露土戦争

に結果的に負けて、1900年義和団事件北清事変)を口実に、再度地中海か

ら東に目を向け、朝鮮を手に入れんがために満州に進駐することになる。そし

日露戦争へと繋がって行ったのである。

(続く)