日韓併合100年(76)

そしてスターリンは旅順要塞はセヴァストボリ要塞を6つ合わせたほどの堅牢な

要塞と評したほどである。司馬遼太郎は其の著作「坂の上の雲」で、乃木大将の

ことを、ただ闇雲に部下を死なせた無能な将軍として描いているが、これは大い

なる間違いである(と思う)。そして旅順要塞戦での日本軍の勝利は、坑道作戦

の採用や勇猛果敢な日本兵、そしてそれらの兵の気持ちをひとつに纏め上げる

乃木大将がいたからこそ出来た、世界に冠たる大勝利であったと言い切ること

が出来る、と結論付けている。さらには、戦後乃木希典は、わずかな給料の中

から費用を捻出して、なくなられた兵のために弔問の旅まで為されたのである。


凱旋後の明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読している。その時には、天皇

の多数の将兵を死なせたことに対して自刃してその罪を償いたいと奏上してい

る。しかし明治天皇は、それを理解しつつも今は死ぬ時ではない、どうしても死

ぬと言うのであれば朕が世を去った後にせよ、と諭したとされる。

そして1907(M40)/1/31学習院院長を兼任することになる。これも明治天皇

のお指図で、明治天皇ご自身の孫(後の昭和天皇)が学習院に入学すること

から、その養育を乃木に託されている。乃木は2人の子をこの戦争でなくしてい

るので、明治天皇は、乃木に対して、自分の子供だと思って育てるように述べら

れたと言う。これはWikipediaに記載されていることである。


そして乃木希典は、大正元年(1912年)9月13日明治天皇大葬の行われ

た日の午後八時ごろ、妻・静子と共に殉死している。乃木夫妻の葬儀は、

大正元年(1912年)9月18日に行われ、十数万の民衆が自発的に参列して

いる。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、

また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現されたと言う。


なお乃木希典は、子供の頃左目を失明しており、死ぬまでそのことを話していな

かったと言われている。しかしそれでも剣術、馬術は人並み以上の技量を体得

しており、並みの努力家ではなかった。まさに鉄の意志の持ち主であった。東京

乃木神社には、今でも乃木大将の使った片目の双眼鏡があるという。


乃木将軍

http://www.geocities.jp/nkymsgtm/nogishogun.index.htm


乃木大将の第3軍は、1904/6/6に遼東半島に上陸し、1904/6/26に進撃を開始

してから丁度210日目となる1905/1/1に旅順を陥落させている。この間の死者

およそ16,000名(露約1万名)、負傷者47,000名(露約2万5千名余)に達し

ている。

この数字は、「
日露戦争 概説4http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html の数字に、

第3軍が上陸から包囲までの間の死傷者を4,300名として、小生が追加概算し

たものである。

 

さてその間でも日本陸軍は、満州へ進軍している。1904/2/9仁川沖海戦

1904/2/24~5/3旅順口閉塞作戦などで当座のロシア海軍の脅威はなくなって

いる。

(続く)