1905/1/1に旅順が陥落しているが、時間を遡って満州に目を向けよう。日本陸
軍はその間でも、満州へ進軍している。1904/2/9仁川沖海戦、1904/2/24~5/3
旅順口閉塞作戦などで当座のロシア海軍の脅威はなくなっている。第1軍先遣
部隊は1904年2月16日仁川に上陸、そして黒木為楨(ためもと)第1軍主力も
3月11日に鎮南浦(平壌の玄関港)に上陸し北上する。そして渡河のための各
拠点を確保し、砲兵を進出させ、架橋し周到な準備の下で1904/4/29に鴨緑江
渡河作戦を開始している。優勢な火砲の援護射撃のもと渡河作戦は順調に
進み、ロシア軍の裏を書き、5月1日、艦砲射撃も加えて砲兵の援護射撃のも
と、九連城陣地まで占領することが出来た。ロシア軍は安東市(今の丹東)と九
連城に陣地があったが、安東地区の防御を主に固めていたため九連城は手薄
であった。この戦いは日露陸戦の緒戦であり、周到な準備と圧倒的な火力のも
とで優勢だった日本軍が快勝した。この緒戦の勝利と旅順港に旅順艦隊を閉じ
込め曲がりなりにも制海権も確保し、将兵をはじめ国民の士気は高揚
した。'10/12/3のNO.33に安東や九連城の地図がある。参照されるとよい。
この鴨緑江渡河作戦(1904/5/1)の後、第1軍は遼陽へと進むことになる。そし
て第2軍が1904/5/5遼東半島に上陸し、5/25~26の金州城、南山での激戦を戦
う事になる。そして連合艦隊は、1904/8/10黄海海戦('11/5/11,NO.71参照)
1904/8/14蔚山沖海戦をへて、乃木希典の第3軍の1904/8/19~1905/1/2旅順
攻囲戦となる。
その蔚山沖海戦は、ロシア・ウラジオ艦隊の巡洋艦3隻とわが第2戦隊(上村
艦隊)の巡洋艦4隻との艦隊戦である。日本の商船隊は、このウラジオ艦隊
に散々痛めつけられていた。1904/8/14早朝、対馬の北、蔚山(ウルサン)の沖
でウラジオ艦隊と遭遇する。ウラジオ艦隊はウラジオストクへ逃げ込もうとする
旅順艦隊と合流すべく南下してきたのであったが、旅順艦隊は旅順港から出て
きたところ1904/8/10の黄海海戦で攻撃を受け、再度旅順港に引きこもってし
まっていた。この情報はウラジオ艦隊には届かず、そのためウラジオ艦隊は旅
順艦隊と会合することは出来ず、村上艦隊に見つかってしまう。2時間半の砲撃
戦の末、巡洋艦リューリックは沈没、残りの巡洋艦グロムボイとロシアは大破
し、グロムボイとロシアは方法の体でウラジオへ逃げ帰る。村上艦艇も砲弾が
尽き追撃を断念する。そのため村上艦隊は引き替えし、波間に漂うリューリック
の乗組員600余名を救助している。
沈みながらも砲撃を続けた「リューリック」を見て、「敵ながら天晴れである」と、
上村彦之丞中将は、退艦した乗組員の救助と保護を命じたのである。このエピ
ソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例
として日清戦争の伊東祐亨(すけゆき)提督(当時中将)と共に、各国海軍の
教本に掲載されている。また、日本海海戦では、判断を誤った東郷の指令に対
して、独断専行してバルチック艦隊を追撃し、日本海海戦を勝利に導いている。
これらはWikipediaに記されている。
ちなみに日清戦争での威海衛の戦いに敗れ、ジャンク船で運ばれる丁汝昌の
遺骸を、伊東祐亨中将が、商船を開放しそれで運ばせたことは、'10/11/30
のNO.32で、述べられている。
これ以降ウラジオ艦隊は修理も進まず、戦局に影響を与えることはなく、日本軍
は日本海の制海権を確保することになり、後の日本海海戦に望むことになる。
そして満州ではは、1904/8/19~1905/1/2旅順攻囲戦を勝利して、
1904/8/28遼陽会戦へと進んでゆく。
(続く)