この遼陽会戦までの進軍経路は、このURLの43頁を参照されるとよい。
ここに第1軍、第2軍、第4軍の遼陽への攻撃準備が完了することになる。しか
し補給が追いつかず7月の遼陽攻撃は不可能であった。日本軍12万5千は
8月には、遼陽を半円形に望む形で全軍が展開した。東から、第1軍、正面に
第4軍、西に第2軍が布陣する。その西最左翼には秋山好古少将率いる秋山
支隊が布陣していた。そしてロシア軍は16万(1部史料には約23万)が防衛陣
地を構築して待ち構えている。
1904/8/26、第1軍が白兵で夜襲攻撃を行い、ロシア第一線陣地を占領する。
第4軍、第2軍も8/25猛攻で敵主力を後退させる。そして8/30,31には首山堡
塁をめぐり一進一退を繰り返す。この戦いで橘周太大隊長少佐(中佐進級)が
壮烈な戦死し、後に広瀬武夫と並び軍神として崇(あが)められた。
8/30夜、第1軍はひそかに太子河を渡河し、遼陽の東側面に回りこむことに成
功する。そして9/1には饅頭山などの敵陣地を攻略する。これに対してロシア満
州軍総司令官クロパトキンは、日本軍第4軍、第2軍と対峙させていた部隊を
1部東方の日本第1軍に振り向けた。そのため苦戦していた左翼の日本第2軍
は前進することが出来た。その代わり今度は9/2、第1軍がロシアの猛攻を受け
ることになる。
特に饅頭山は、9/2にはロシアに奪還されてしまうが、9/3今度は第1軍が猛攻
を仕掛け再度奪還するなどの、こう着状態が続いたが、クロパトキンは次の
奉天での決戦を考慮して、1904/9/4に全軍撤退命令を出したため、日本軍は
何とか遼陽を占領することが出来た。しかし日本軍も戦力を消耗しつくしていた
ため、追撃は不可能であった。
こうして日露主力による決戦は日本軍の曲がりなりにも勝利で終結したが、
ロシアも戦略的撤退であるとして勝利宣言を行っている。死傷者は日本軍
2万3,500、ロシア軍2万余とWikipediaには記載されている。
なお日露戦争に関する地図は
「日露戦争地図」
(http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/sensou_map.html)や
「陸戦、海戦、軍事史料」
(http://www.sakanouenokumo.com/gunji.htm)を参照されるとよい。
こうして日本軍は遼陽を占領し、ロシア軍は奉天(今の藩陽)に撤退した。そして
両軍は夫々その地を拠点として、来るべき会戦に向けての補給と軍の整備を
行っていた。
(続く)