日本軍は、第1軍が確保した安東(九連城など、今の丹東地区)から本渓胡に至
る経路、ここには手押しの軽便鉄道を建設中であった。朝鮮半島では京釜線
が1904/11に開通し、京城→義州を建設中であった。更には東清鉄道支線の大
連→遼陽間に狭軌用に一本線路を1904/9までに追加して利用可能とした。そし
て第3の補給ルートは営口から遼河の水運を利用するものであった。
これは「日露戦争 沙河会戦と戦機」
(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/shaho.html)に詳しく記述されているの
で参照されるとよい。ロシアはハルビン→大連の東清鉄道支線がシベリア鉄道
とつながったのは、1904/9であった。しかしロシア本国から約7,000km、しかもシ
ベリア鉄道は単線であったため、それほど余裕のある能力でもなかったようで、
それなりの不便・苦労があり兵站については日本軍の方が有利であったと言う。
そんな中クロパトキンのほかにもう一人将軍、10歳年上のグリッペンベルク
が1904/11に派遣されることが決まり、満州軍総司令官クロパトキンは大いに気
を悪くした。そのため彼の着任前に日本軍を撃退しておこうと、1904/10/8にロ
シアから攻撃を開始してきた。ロシア軍の攻撃は、日本軍右翼を攻撃し、日本
軍を東から西に包囲しようとする意図であった。日本軍もそれを察知し、右翼の
梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(予備役兵士たちによって構成された
2線級部隊だった。Wikipediaによる)を配置させていたが、そこへロシア軍は3
倍以上の兵力で攻め立ててきた。しかし梅沢はこの2戦級の旅団を見違えるよ
うな戦闘部隊に変貌させていた。しかしこの梅沢旅団と第十二師団第十二旅団
第十四連隊は寡兵ながらロシア軍の攻撃に対して必死に反撃し、激闘3時間見
事これを撃退することが出来た。しかし翌日は更に大規模な攻撃を受ける。梅
沢旅団は再度苦境に立たされるが、援軍が差し向けるまで見事この本渓湖陣
地を持ちこたえていた。そしてこの本渓湖陣地が勝敗の鍵を握ると見た第1軍
司令官の黒木為楨 が援軍として派遣した日本騎兵第2旅団は、ロシア軍の側
面に回り機関銃で攻撃した。このためロシア軍は大混乱に陥り、退却した。この
ためクロパトキンの包囲作戦は失敗する。反対に今度は、日本軍の第4軍と左
翼の第2軍が、ロシア軍を包囲しようと反撃に出る。しかしロシア軍の反撃も猛
烈で、度々日本軍も敗走する。しかし本渓湖での激戦に、ロシア軍が兵を集中
させたため間延びし、第4軍が要衝の三塊石山を占領し中央突破を企てたた
め、ロシア軍は後退し10/18に沙河北岸に撤退する。日本軍は弾薬も欠乏し沙
河南岸に陣地を構築して、お互いが塹壕に篭って次の春までの3か月間対峙す
ることとなる。これが「沙河会戦(さかかいせん)」である。
なお本渓湖陣地で奇跡的な奮戦をした梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅
団は、その奮戦振りから「花の梅沢旅団」と全軍に知れ渡り、その後、後備歩
兵連隊を増強され、歩兵三個連隊編成と言う異例の大旅団となった、と
Wikipediaに記述されている。彼は、それまでは泣かず飛ばずであったが、もと
もと能力は高くいくさ運びはうまかった。いわゆる逆境に強い人物であったので
あろう。しかしもしこの本渓湖陣地がロシアに突破されていたとしたら、その後の
展開はどうなっていたか、予測は付かったであろう。ましてや6/15に常陸丸が沈
められ当てにしていた千余名の将兵の補充もなく、旅順には第3軍が張り付い
て当座は身動きできない状況を鑑みると、この「梅沢旅団」の活躍によるロシア
軍の包囲作戦の阻止には、相当な意義があったことであろう。何はともあれ、後
備旅団を第一線に投入しなければならなかったことは、日本軍もそろそろ手一
杯のところまで来ていたと言うことなのか。何はともあれ、梅沢旅団に感謝!
(続く)