しかし日本軍の最大の危機は、この沙河会戦(1904/10/8~10/18)ではない。
次に控える「黒溝台会戦」が日本軍の最大の危機であった。日露両軍は、お互
いに補給を待つ間、沙河の両岸に穴倉に篭っている(沙河の対陣)。このとき、
負け戦続きのロシア満州軍は、思い切って軍を編成しなおしている。日本軍と同
じように第1軍(リネウィッチ大将)、第2軍(グリッペンベルク大将)、第3軍
(カウルバリス大将)に編成し、1904/10/26には極東軍総督のアレクセーエフ海
軍大将は解任され、アレクセイ・クロパトキンが極東陸海軍総司令官となって
いる。
話は戻るが、ロシアは1898/3/27清国と「旅順大連租借条約」を結び、遼東半
島の25年間の租借をもぎ取り、更に大連までの東清鉄道支線建設の権利を手
に入れている(2010/12/17のNO.43参照)。アレクセーエフは1899年に、この駐
留軍司令官と太平洋艦隊司令長官に就任する。そしてその翌年1900/7/16に
は、義和団がロシア領のブラゴヴェシチェンスクに侵入したのを契機に、これ
を追い出しそこに居住する中国人を大量に虐殺し、更に東三省(満州)に軍を
進出させる。アレクセーエフはこれらの軍功により、中将に昇進し1903年に大将
に昇進し極東総督となり、満州全域の軍事・行政を牛耳ることのなる。そしてロ
シア国内の資本家の要請で、朝鮮への権益の獲得に乗り出したのである。そし
て1904/2に日露戦争が始まり(2010/12/23のNO.46参照のこと)、結局は連戦
連敗の責任を取り解任されたのである。黄海海戦の契機となった旅順艦隊のウ
ラジオへの回航を命令したのもアレクセーエフ総督である。
さて旅順攻囲戦は1905/1/2に旅順陥落で終了している。それで日本軍第3軍
は満州の会戦に参加できることになった。ロシアは乃木軍の到着は、1905/2/17
頃と予想していた。そしてロシア軍も再編されたことだし、乃木軍の到着前に攻
勢を仕掛けることとなる。そのためクロパトキンは1905/1/9に奉天から営口ま
で、1万人規模のシミチェンコ騎兵支隊を威力偵察に派遣した。これから始ま
る満州での会戦に対する日本軍の補給基地(営口)を叩くことが主目的であっ
たが、その主目的は達成することは出来なかった。しかし日本軍の弱点が最左
翼にあることを発見している。その左翼は秋山好古率いる秋山支隊が守ってい
たが、好古も同じ日に永沼秀文中佐指揮の騎兵挺身隊を派遣した。わずか
2個中隊の176騎ほどであったが、ロシア軍の背後に潜入し、1905/2/12東清
鉄道長春駅南方の新開河鉄橋を爆破している。当初ヤオメンの大鉄橋を爆破
する計画であったが、ロシア側の防御が堅く爆破困難と見ると、判断良く、爆破
可能と判断された新開河の鉄橋を爆破したのである。そして通信線の破壊、各
拠点の破壊などでロシア軍の後方を大いに撹乱し、多大な脅威と負担を与え、
この75日間に渡る永沼挺身隊の活動は日本軍の勝利に大いに貢献した。クロ
パトキンは永沼挺身隊の破壊活動に対して、その勢力を一万騎と誤認するほ
どであった。そしてこの背後での脅威が、クロパトキンをして奉天からの退却の
一つの原因ともなったのである。永沼挺身隊は3/24に本隊に帰還し、第八師団
で最初の感状を受けている。
永沼挺身隊の出立した同じ日(1905/1/9)、たった6騎の建川美次中尉の斥候
隊が出発している。目的はロシア軍がどこで決戦を企画しているかを探るもので
あった。クロパトキンの決戦場所は、奉天か、その北の鉄嶺かを探るもので
あった。「敵中横断三百里」は、1931(S6)年に出版された少年向けの小説だ
が、これは建川斥候隊がモデルである。
(続く)