日本軍の布陣は、西(左翼)から秋山支隊、第2軍、第4軍、そして最右翼には
沙河会戦で名を馳せた梅沢旅団の所属する第1軍が布陣していた。これに対す
るロシア軍は、西から第2軍、第3軍、第1軍が対峙している。秋山支隊はロシ
ア軍の第2軍と対峙することになる。この第2軍の司令官が、グリッペンベルグ
大将であった。秋山支隊は40kmの範囲をわずか8,000人で守っていたのだ。し
かしそのため拠点防御方式と言う騎兵にあらざる防御布陣を強いていた。即ち
軍馬共々塹壕に隠れ、夫々機関銃で防御すると言う野戦陣地を構築していた。
結局はこの機関銃と秋山好古の一歩も引かぬと言う自身の置かれた立場を理
解した奮戦が、この会戦を救うことになる。野戦陣地は、黒溝台に種田支隊、
沈旦堡に豊辺支隊、韓三屯には三岳支隊、そして李大人屯には秋山好古で
あった。好古は己の騎兵偵察の情報から、満州軍総司令部に対して、「ロシア
軍の大作戦の兆候」を幾度となく発信していた。またその鉄道補給の増大の様
子も、イギリスなどから知らされていた。しかし満州軍総司令部はこれらの情報
を無視した。ロシアの戦法は陣地を構築しつつ攻めるのが常道であり、この
冬季の凍結した大地に陣地は構築できないから、攻めては来ないであろう、とい
う安直な推測であった。しかも満州軍総司令部の総参謀長児玉源太郎も、第2
回の旅順行き(1904/12/1旅順着)の後、頭の回転がいつもの通りではなかっ
た。連日連夜のフル回転だった体が旅順行きで、一種の空白期間に置かれた
様であった。しかし児玉の旅順行きのお陰で、1905/1/1旅順は陥落しているの
だが。
ロシア軍でも、新たに着任した第2軍のグリッペンベルク大将とクロパトキンと
の間に確執が存在した。グリッペンベルグはクロパトキンよりも10才年上であっ
たが、クロパトキンの配下の司令官である。2人はお互いに牽制しあった。今で
も攻め込みたいグリッペンベルグに対して、クロパトキンは慎重であった。その
ためクロパトキンは、第2軍に対してだけ日本軍左翼への攻撃を認めた。
そして1905/1/25、第2軍のグリッペンベルク大将は10万の大軍で秋山支隊へ
の攻撃を開始した。
報告を受けた総司令部は的確な判断が出来なかった。過小評価していた総司
令部は第八師団(立見尚文中将)にのみ出動を命じた。しかもそこの参謀長は
激戦続く黒溝台からの撤退を命令する。黒溝台は種田大佐が守っていたが、
第八師団が駆けつけるまでにはそれなりの時間が必要だった。一旦退却させて
ロシア軍をおびき出して包囲する考えであったが、ロシア軍はそれどころか黒溝
台を再構築して居座るつもりだった。そのため第八師団は敵を包囲するどころ
か、黒溝台を奪い返さなければならなかった。そうこうする内に第八師団も、敵
軍に猛攻を受け始める。満州軍総司令部はあわてた。手持ちの予備軍は第八
師団だけで増援したくても予備はない。そのため中央部を守っている第2軍から
第5師団を引き抜き、1/26夜に派遣する。更に1/27には最右翼の第1軍から
第2師団の1部を派遣する。そして更に1/28には第2軍より第3師団が追加で
派遣された。この応援軍は同日から秋山支隊を援護すべく、ロシア軍へ攻撃を
開始する。よく言われる兵力の逐次投入となってしまった。
(続く)