「取舵一杯っ」(左転)だ。敵の射程距離内での敵前Uターンである。バルチック
艦隊の頭を抑える「丁字戦法」の発令である。14:07、三笠回頭、連合艦隊の
第1戦隊6隻の戦艦が一斉回頭を開始する。第2戦隊の6隻もそれに続く。バル
チック艦隊は攻撃準備のため単縦陣にすべく艦隊行動中であったが、単縦陣に
は出来ず5/27,14:08、回頭のため動きが止まった日本艦隊に砲撃を開始する。
14:10、三笠に敵砲弾が命中する。Wikipediaによると、艦隊が回頭を完了する
までに、「三笠」は16発の命中弾を受けている。
そして距離6千4百メートル。14:11,連合艦隊も敵先頭艦に向けて砲撃を開始
する。
日本第1戦隊は、戦艦・三笠、敷島、富士、朝日、装甲巡洋艦・春日、日進
日本第2戦隊は、装甲巡洋艦・出雲、吾妻、常盤、八雲、浅間、磐手、
巡洋艦の春日と日進は、アルゼンチンがイタリアのジェノバの造船所に発注し
ていた装甲巡洋艦であったが、チリ、アルゼンチン間での緊張関係が収まった
ので売りに出ていたものであった。それを1903(M36)年、英国の勧めもあって
日本が大金をはたいて購入したものである。尤もチリも英国に戦艦を発注してい
たが、日本は最初はチリが発注していたこの戦艦を買うつもりであったが、ロシ
アとの競合となりこれを見たイギリスが購入してロシアには渡らなかった。このア
ルゼンチンの2隻は、1904/1/8にジェノバで日本側に引き渡されている。
そして1904/2/16、両艦は横須賀に到着する。
そして1904/5/15、第1戦隊の戦艦初瀬と八島が敵機雷に触れて爆発沈没して
しまう('2011/5/9, NO.69参照)。まことに以って大損害であった。そのためその
後釜として、この春日と日進が当てられたものである。
ちなみに5/27は日本海海戦記念式典が現在でも関係各地で開かれ、英国海
軍武官とアルゼンチン海軍武官が共に招待されている、とWikipediaに記載さ
れている。この日は戦前は海軍記念日でもあった。
ついでながら愛知県の名古屋市の郊外に日進市なる街があるが、この装甲巡
洋艦「日進」の活躍にちなんで付けられたということもこのWikipediaには書か
れている。日進市のホーム.ページによると奈良・平安時代から窯業生産地で
160基もの古窯跡が確認されている。明治22年の市制町村制で三つの村が誕
生し、日本海海戦の翌年の1906(M39)/5/10にはその愛知郡の三村が合併して
日進村となる。1958/1/1に町制施行で日進町、1994/10/1に市制施行で
「日進市」となっている、と書かれている。
戦艦「三笠」には、 前・後甲板に、主砲12インチ(30.48cm)連装砲が2基で4門
舷側に、副砲6インチ(15.24cm)単装砲が7門づつ14門
装甲巡洋艦「出雲」 主砲8インチ(20.3cm)連装砲が2基で4門
副砲6インチ(15.24cm)速射砲7門×2で14門
なので、敵艦に舷側を向けて砲撃する方が都合が良かった。だから丁字戦法
が、当時としては常識的な戦法であったと言う。ただし、敵艦の射程内での
「東郷ターン」は、かなりの冒険であったが、東郷は、当日は天気晴朗なれども
波が高く、日本海軍ほどバルチック艦隊は砲撃精度は高くないことも弁(わきま)
えていた。まあそれにしても戦艦の主砲はデカイものである。
それはさておき、東郷は1905/4/10に、大本営軍令部長の伊東祐亨(すけゆき)
大将からは、バルチック艦隊の全滅を申し渡されていたからである。
大本営海軍部命令第一号
「連合艦隊司令長官並びに第3艦隊司令長官は、東洋にある露国艦隊の全滅
を計るべし」
(「日露戦争 6」(児島襄)による)
伊東祐亨(すけゆき)中将(当時)は、日清戦争では清国艦隊を降伏させ、丁汝
昌提督の亡骸がジャンクでおくられることを聞き、商船「康済号」を提供して丁重
に送らせた、その礼節を賞賛されたその人である(2010/11/30,NO.32参照)。
(続く)