7/31、昼過ぎ北部樺太のロシア軍が、全面降伏している。日本側には一人の死
傷者もでなった。7/7~7/31間の、わずか24日間で樺太攻略作戦は終了した。
これで、講和を有利にする四つの条件のうち二つが達成されたことになる。
しかしロシアにとっては少しも痛痒は感ずることはなかった。
ロシアに痛痒を感じさせるためには、浦塩を攻めておくべきであった。
8/2、ウィッテの乗ったドイツ船籍の客船は、ニューヨーク港に到着し、沢山の
記者が乗り込んできた。ウィッテは早速全記者と握手を交わし、愛嬌を振りまき
全ての質問に丁寧に答えた。
そのため8/3の各新聞は、ウィッテの到着を写真入りで好意的に伝えた、と「日
露戦争7」(児島襄)には記されている。そして人目に触れぬ場所ではいつものよ
うに傲慢な態度であったため、秘書などは、人前では急に親しみを見せる態度
で接してこられたので、大いに面食らっていた。
糞まじめな日本全権団の、明らかな劣勢であった。これというのも、明治維新か
らわずか38年しか経っていない。国と国との外交交渉に関してのマスコミの役
割に対して、それほど理解をを持てなかったものと思われる。
8/4、ウィッテはオイスターベイで、ルーズベルト大統領と会食している。
ウィッテは、大統領からサガレンを譲渡し、賠償金を支払い講和したらどうか、と
説得されたが、頑として肯(がえ)んじなかった。
日本も小村寿太郎も、多分必死だったに違いない。最大の努力でもって講和談
判に当ろうとしていたことであろう。誠に頭の下がる思いである。
8/5、日露両全権団は、オイスターベイの沖合いの停泊する大統領専用ヨット
「メイフラワー」の船上で、相見(まみ)えることとなる。
ウィッテは、大国であるロシアの体面を保持するために、日本より上席に位置す
ることにこだわった。そのため、大統領専用ヨットに乗船する順序にも難癖をつ
け、結局は米国に到着巡にメイフラワー号に乗船することとなった。まず日本全
権団を乗せた巡洋艦「タコマ」が先にニューヨーク港を出港し、次にロシア全権団
を乗せた巡洋艦「チャタヌガ」が出港した。
大統領は、メイフラワーに乗り移った小村寿太郎を早速最大限の敬愛で迎え
た。そして小村・高平両全権を艦長室に案内して、8/4のウィッテへの説得状況
を説明した。それは、講和状況の不調を暗示するものであった。
ロシア全権団は、サロンに案内され大統領に迎えられた。ロシア全権団の紹
介は、米国務次官補のパースが親近感を示すように行っている。日本全権団
の大統領への紹介は高平公使が行っている。アメリカ人パースは本能的に白
人種側に立っていた。
紹介が済むと、大統領は「日本委員を紹介する」と言うと、いきなり隣のドアを開
けて小村・高平両委員を招じ入れた。お互いに無口のまま握手を済ませると、
大統領は昼食へと誘った。
通常なら日本全権団、ロシア全権団という順序で、食堂へ移動するものである
が、下座に立ちたくないというウィッテから苦情から、大統領は順序を指定するこ
となく「さあ、行こう」と言うなり歩き出した。そのためウィッテは即座に大統領の
後に付き、ローゼンは小村委員に先を譲り交互に一列となり食堂に向かったと
言う。しかも食事は立食であった。これでは席順問題が起こらない。そして大統
領の乾杯の音頭も「両大国の君主と国民のために」と、配慮したものであった。
(続く)