日韓併合100年(127)

金子から小村にルーズベルトの変心が知らされていれば、小村からは何らか

の対抗策がウィッテに向けられていたことであろう。例えば樺太全島の譲渡か、

または樺太の北半分を(報酬金と引き替えに)還付するのどちらかを選択せよと

迫るとか、はたまた、北韓作戦の開始と浦塩攻略をほのめかすなど、である。こ

のときはまだ休戦協定は結ばれていない。更にはロシア国内での革命機運の

高まりなどを話題にしての談判の継続などである。


ルーズベルトの勧告は、ロシアは樺太の2分割案に乗って平和を希望せよ。そう

すれば、自分は日本に報酬金を放棄させるから。それがロシアのためであり、

世界平和のためでもある。・・・と言ったところであろう。ルーズベルトの本心が剥

き出されたものである。当初は小国日本が大国ロシアを負かせたことにやんや

の喝采をおくったものだが、よく考えてみると、日本はこのアメリカとやがてはぶ

つかることとなろう。アメリカの戦略にとっての(日本は)棘(トゲ)となるかもしれ

ないし、なんと言ってもロシアは同種、同文、同宗である。ここはひとまず日本の

頭を抑えておく必要がある、と言うことでの変心であろう。事実1904年に、T・ル

ーズベルト大統領は「カラーコード戦争計画」を下問している。それに基づいて

対日戦争計画War Plan Orange1919年から立案されたものである。そして

白い大艦隊Great White Fleet(戦艦16隻他)を1907/12/16~1909/2/22間、世

界一周航海させ1908/10/18~25の間、横浜港に停泊させた。日本政府は大い

に歓迎したが、T・ルーズベルトが計画した黒船に継ぐ恫喝外交の一種であっ

た。


ホテルに戻ったウィッテには、大統領からの先の電報が届いていた。「ルーズ

ベルトはついにロシアに加担した
」とほくそ笑んだ。金子が大統領の最初の書

簡を打電したのはこの頃であった。小村は一歩遅れていたので、有効な手を打

てなかった。反対にウィッテの策に飲まれることになる。


ウィッテはこれらの事情から、世界を味方につけることを考えていた。即ち日本

は「金のために戦争」を遂行している、と世界に吹聴することであった。今ルー

ズベルトは、日本に金のために戦争をするなと言っている。日本があくまでも

酬金
に固執すれば、平和を希求する世界を敵に回すことになる。日露戦争は、

ある意味、世界戦争となっていたのである。


8/23(水)午後2時半
、本会議開催。日本側から8/18の秘密合意

'11/8/3,NO.123)の覚書が提出された。


するとウィッテは小村に次のような質問をした。


サガレンの半分の還付に対する報酬金と言っても、それは賠償金に他ならな

い。本国は賠償金を認めてくれない。従って、樺太島全島を日本に譲渡した場

合には、報酬金は不必要となる。その場合には日本は金銭払い戻しに関する

一切の要求を撤回するか。と言うものであった。


結果として日本は樺太の半分のみしか得られなかったので、賠償金を得られな

いとすれば樺太全島を得たほうがよかったのである。これは結果が判っていた

から言える事ではある。それに世界の列強の考え方に日本は疎かったに違い

ない。それに連戦連勝で鼻高々となって、周りがよく見えていなかったのではな

かったか。小村が陥った重大な間違いのひとつであったであろう。いま少し周り

が見えていれば、と思うのである。そして金子からの「大統領は賠償金を放棄

せよ
と言い出した」との電報があれば、小村も違った対応が出来たかもしれな

い。


当時は、「一文無しの講和」は夢想外であった。と
日露戦争8」(児島襄)には

記されている。


ウィッテは樺太の2分割論を提案した。それに小村が乗って、樺太の半分還付

に対する報酬金を要求した。今度は反対に樺太の半分の還付は要らないから、

報酬金を撤回せよ、と反駁してきた。まだ成り立ってもいない話を盾に使ってき

た。小村はそれに気付いていない。「賠償金を放棄せよ」との大統領の勧告

知っていれば、少しは違った対応をとったかもしれない。今となっては詮の無いこ

とである。

(続く)