支那事変の真相(7)

(6)
中国の歴史・辛亥革命から第一次世界大戦まで

 
辛亥革命により中国には中華民国が成立していたが、中国の政治状況は各地に軍閥

群雄割拠しており、北京などは軍閥の抗争の舞台となっており全く安定したものではな

かった。中国での政治状況を検討するには、その状況を先ず頭に入れておく必要があろ

う。その政治の混乱を利用して共産党軍が自軍の政略を有利に進めるために、中国で

は、ありもしない日本軍による侵略話が作り出されていったのである。そして中国共産党

中共)の
暴力統一
を正当化していったのである。以下その混乱状況の概略を列記する。

 
 
1912.1.1
辛亥革命により『中華民国』が、1912.1.1に南京に成立する。しかしながら  誰もリーダー

としてふさわしい人物を選出できなかったために、アメリカか  ら帰国したばかりの孫文

臨時大総統に就任する。しかし中国を代表する主  体としては清朝がまだ存続しており、

その重臣であった袁世凱は革命派と内  通して、これ幸いにと清朝の乗っ取りを考えて、

清朝宣統帝の退位を促し  た。


1912.2.12

その結果、清朝は滅亡袁世凱が(孫文より移譲されて)中華民国臨時大 総統の座

を得ることになる。


1913.3.22
袁世凱は、勢力を拡大しつつあった国民党の宋教仁を1933.3.22に暗殺し、  勢力を拡大

して行く。そして独裁体制をとり、列強諸国の権益を保障する見  返りに自身の政権の

安定
を図っていった。


1913.10.10
そして袁世凱はその年の10月には正式に中華民国の大総統に就任している。


1914.7.28

すると1914年に第一次世界大戦が勃発し(~1918.11.11)、列強諸国はヨーロッパに釘付

けとなる。


1915.1.18
日本は日英同盟を結んでおり、その関係で中国山東半島ドイツ権益地を攻 略し占領

する。日本はそのドイツの権益を継承するために当然中華民国と交  渉する必要があっ

た。袁世凱はその解決策として、要求内容をいわゆる「対  華二十一カ条」として日本に提

示して、日本から中華民国へ要求する形にし  てほしいと依頼してきた、そうすればドイツ

の権益を日本に譲り易くなり、  その見返りに袁世凱の帝政復活への支援を求めてきた。

そのため日本は  1915.1.18に『対華二十一カ条要求』を袁世凱に行い、袁世凱の帝政

復帰
を暗  黙裡に了解した。しかしこれを受諾した5月9日を国恥記念日と呼び袁世凱  は

反発を受ける。しかし英・仏・露はこれを支持し、独・米は反対している。


1915.12.12
袁世凱はさまざまな手段を講じて帝政復活を画策していたが、これにより参  政院の満場

一致の推戴を受け、1915.12.12中華帝国を宣し、中華帝国大皇帝となった。


1916.3.22
しかしこの帝政復活に対しては、独裁を危惧して国内外から猛烈な反発があ  り、

1916.3.22には帝政を取り消して「洪憲」年号も廃止する。


1916.6.6
袁世凱は1916.6.6に失意の内に死亡する。尿毒症と言われているが袁世凱の死後黎元

(れいげんこう)が大総統を継ぐが、袁世凱の勢力(北洋軍閥)  は、安徽派(段祺瑞)と

直隷派(馮国璋ふうこくしょう)に分裂し主導権争いが激化する。この結果北京政府は形

ばかりの存在となり、蒋介石の統一ま  で中華民国分裂状態となる。ちなみに黎元洪

とは、孫文の片腕として初代  の中華民国臨時副大総統に就任した人物である。


1917.8.1
黎元洪のあとは両派の折衷体制となり、直隷派の馮国璋を大総統、安徽派の  段祺瑞

国務総理とする体制であった。しかしこの体制は長続きせずに孫文  が1917.9広東軍

政府
を起こすと、この2人はその対応で対立する。最終的  には直隷派は奉天派と提携

して、安徽派を圧迫することになる。結局この争  いは戦争となる。


1917.9.28
日本の寺内内閣は段祺瑞に西原借款で援助する。結局1918年までに1億  4500万円と3

千万円の武器援助が行われた。殆どが貸し倒れとなる。この援  助の趣旨は、「対華二十

一カ条要求」で意に反して評判を悪くしたので、  「日支親善」とそれによる「日支経済提

」を目論んだものであった。日支  親善のためには段祺瑞内閣の強化が必要であり、段

祺瑞としても中央政府の  確立には願ってもない資金であった。しかし有効には使われず、

これは何の  役にも立たなかった。今で言う政府開発援助ODA端くれだったのだが。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/6.htm


1917.11.7

ボルシェビキがソヴィエト政権の樹立を宣言する。ロシア10月革命


1918.5.19
日華共同防敵協定が調印される。これはソヴィエト政権の樹立を受けシベリ  アからの敵

に対して日本が派兵し、中華民国はこれに協力すると言うもの。


1918.11.2
石井・ランシング協定調印。21箇条に反対だった米国に対して、南満州の日  本の権益

を米国が認める代わりに、中華民国の門戸開放を日本が認める内容  のもの。この頃の

日本の外交はすばらしく、それなりに各列強の了解をとっ  て仕事を進めていたようだ。


1918.11.11

第一次世界大戦が終了


1919.1.18
第一次世界大戦の講和問題などを討議するパリ講和会議が開かれる。紆余曲  折の末

に、1919.6.28にヴェルサイユ宮殿でその調印が行われ、この連合国と  ドイツとの講和が

成立する。この条約はヴェルサイユ条約と呼ばれている。

(続く)