支那事変の真相(8)

(7)
中国の歴史・中国内乱から中山艦事件まで

  
1919.5.4


このパリ講和会議で、山東半島などのドイツ権益を日本が継承することが承 認されると、

北京の学生たちが天安門広場からヴェルサイユ条約」反対の  大規模なデモ行進をお

こない、反日運動を起こす。やがては日貨排斥運動へ  と繋がっていった。これを五四運動

と言い、中国共産党は自発的に起こった  ナショナリズム運動と高く評価しているが、実際

にはコミンテルン(や中国  共産党)の指導を受けた隠れ共産党員と学生たちが始めた

日運動
と考える  のが妥当であろう。


とろくさい運動を五四運動などと呼ぶ代わりに、なぜもっと早くドイツに向って反対運動を  やらなかったのか、と詰問したい。欧米人に対しては文句は言わずにアジア人の日本人に対 してだけ文句を言うと言うことは、中国人の劣等感の現れであろう。そしてそれを利用して、中国共産党が民衆を扇動して、日本に対する反対運動を強制的に引き起こしたものである。  だから五四運動などと言っているが、本質は「ちゃちなもの」である。


1920.7.14


1920.7.14軍閥間の戦闘が始まる。これが「安直戦争」と言われ、奉天派の  張作霖

直隷派を救援した結果、安徽派は大敗し壊滅する。この結果奉天派  が中央に進出し直隷

奉天派連合政権となるが、待遇に不満を持った奉天派  の張作霖は直隷派と対立する。


1922.4.28


不満を持った張作霖段祺瑞、孫文と同盟を結び直隷派と戦端を開く。   第一次奉直

戦争
(~5.5)である。直隷派が最終的に勝利し張作霖満州に退却  する。


1923.1.26


孫文ソ連邦代表アドリフ・ヨッフェとの間で「孫文・ヨッフェ共同宣言」が  1923.1.26に上

海で発表される。ソ連共産党の支援による中国統一の推進が宣  言された。即ちコミン

テルン
中国国民党中国共産党による中国の共産革  命による統一の推進である。こ

の「
連ソ容共」への方針転換は財界などから  強い反発を受ける。


1923.6.--


中国共産党第三回全国代表大会において、コミンテルンの指導で国共合作が  方針となる。


1923.8.--


孫文ソ連に代表団を派遣する。蒋介石もその一員として同行している。こ  のとき蒋介

石が国民党を代表して行った演説で語った三民主義は、共産主義  と相容れない部分が

あり不評であった。このため蒋介石は、ソ連共産党へ  の警戒心を強めることとなる。こ

の頃の国民党は国共合作で多くの共産党員  が役員となっており、蒋介石は大いに警戒し

共産党の支配する国民党とは  距離を置くこととなる。国民党の委員には毛沢東もいた。


三民主義とは、民族主義(民族の独立)、民権主義主権在民)、民生主義(土地の平等所  有など資本家と労働者の利害調整)などを掲げた孫文の革命思想。


1924.1.20


第一次国共合作がなり、孫文ソ連援助で黄埔(こうほ)軍官学校を広州に設  立する。

介石
共産党とは距離を置いたものの、この学校の校長に就任す  る。教員の中には

恩来
もいた。黄埔軍官学校では、「組織・訓練などはソ  連式であったが、日常的な軍隊生

活の規律は蒋介石の東京振武学校や新潟で  の日本陸軍第13師団での体験が基礎」とな

っていた、とWikipediaには書か  れている。そしてやがてはそれらが、国民党と共産党

の対立となってゆく。


1924.9.15


奉直戦争後、直隷派が政権を取得し「中華民国憲法」を公布したが、江蘇省  と浙江省

軍閥間で戦争が始まり、これに便乗して1924.9.15張作霖が大軍を投じて侵攻する。こ

れが第二次奉直戦争である。張作霖は、直隷派の馮  玉祥と安徽派の段祺瑞と密約を

結んでおり、この戦争の最中、直隷派の馮玉祥は北京へ兵を進め1924.10.23政権を

乗っ取ってしまう。これが「北京政変」である。このとき馮玉祥は元清朝皇帝の愛新覚羅

溥儀
紫禁城から追い  出している。そして段祺瑞を「中華民国臨時執政」として、張作霖

が政権を掌握することとなる。

この戦争後満州にも共産勢力が浸透し、満州は一層荒れ始めることになる。


1924.9.18
1925.3.12

孫文北上宣言を発し、全国統一を図る国民会議の招集を訴える。北京政変では孫文

は北京に呼ばれるが、夢は果たせずに1925.3.12病没する。その  墓は中山陵と呼ば

れている。


1925.8.--


国民党軍は国民革命軍に編成替えされ、黄埔軍官学校の卒業生たちが基盤となってい

る。そしてコミンテルンの援助を受ける中国共産党の勢力拡大に対  しては、蒋介石

信感
を募らせている。


1926.1.1


蒋介石は第2回党大会で汪兆銘に次ぐNO.2の常務委員に選出されている。  これは蒋

介石の実力もさることながら、党内抗争により実力者が排除されて  いたこともある。蒋介

石は北伐(中国統一)を主張したが、共産勢力に拠り  却下されている。


1926.3.20


国民党海軍の軍艦「中山(ちゅうざん)」が、突如広州の黄埔沖に現れる。  これを中国共

産党とソ連軍事顧問らによる「蒋介石ソ連への拉致」と判断  した蒋介石は、同日共産

党員である艦長をはじめソ連軍事顧問団関係者らを  次々と逮捕し、共産党機関の武器を

没収し広州市戒厳令を発してしまった。  この事件後蒋介石国民党の主導権を掌

握し、共産党員を排除して行く。こ  れを「中山艦事件」(三二○事件とも)と言う。


1926.4.--


その後直隷派の呉佩孚が北京に侵攻し、1926.4に段祺瑞は引退せざるを得な  くなり、

作霖
と呉佩孚が北京を支配することとなる。しかしその呉佩孚も  1926.7に蒋介石による

北伐により北京から追われる。

(続く)