支那事変の真相(13)

満州地域における我が国の被害事件一覧
大正8(1919)年より昭和6(1931)年(満州事変)まで

(項 目)
尼港事件 大正9(1920)年
事件の内容)
 大正9(1920)年に、樺太対岸の尼港(ニコライエフスク)にいた日本人居留民、日本陸軍

守備隊、日本海軍通信隊、計7百数十名がロシア人、朝鮮人、中国人から成る4千名の共

パルチザンによって、凌辱(りょうじょく)暴行を受けたうえ虐殺された事件。(共産パルチ

ザン
とは、コミンテルンの指令に基づく極左暴力革命集団のことである。)


(項 目)
共産パルチザン事件 大正8(1919)年~昭和4(1929)年まで
(件 数) 108件
(事件の内容)
108件の共産パルチザン事件の中でも最も苛烈(かれつ)を極めた事件は、劉少奇統制下

満州省委員会(http://www.history.gr.jp/~showa/ryushouki.jpg)の指令によって、昭和

5(1930)年5月30日に東満の間島省で起こった暴動である。

 総勢5千に及ぶ共産パルチザン部隊は日本領事館、停車場、機関車、電灯公司、鉄道な

どに放火し殺傷する市街戦を起こし、日本人44名を殺害した。

 彼らは数十名を単位としてたえず移動し、いくつもの放火、略奪、暴行事件を起こした。

 故・北朝鮮主席金日成は、共産パルチザンとして、東満州一帯で活動していたことを、元

ソ連軍特殊宣伝部長補佐官レオニード・ワーシンが証言している。


(項 目)
発砲・武力衝突事件 昭和4(1929)年~昭和6(1931)年まで
(件 数) 25件
(事件の内容)
 中村大尉虐殺事件昭和6年)では大尉ほか3名が虐殺され、これが満州事変の大きな

要因となった。

 その他の事件では、兵士2名死亡、警官3名死亡、負傷者数名がでている。


(項 目)
鉄道運行妨害
(件 数)171件
(事件の内容)
信号所を襲撃して列車の運行を妨害する事件が多発した。

 また満鉄の貨物3千両が破壊されるなどの甚大な被害が発生した。


(項 目)
鉄道貨物盗難被害
(件 数)189件


(項 目)
鉄道用品盗難被害
(件 数)22件


(項 目)
鉄道電線被害
(件 数)28件


(項 目)
昭和4年と5年の合計
(件 数)410件


(項 目)
関東庁警察で扱った事故数
(件 数) 1294件
(事件の内容)
 昭和5(1930)年に起こった満鉄の各駅ごとの事件事故数の集計。(別地図参照)


(項 目)営業権の否認・制限

(事件の内容)
 炭鉱・石炭山等の採掘権の否認、炭鉱輸送制限、満鉄の枕木購入制限、不属地土地買

収禁止、日本人農場への鉄道敷設、林業妨害、電気営業の妨害、借款(しゃっかん)の踏

み倒し、買収土地の返還命令、日貨排斥、沿岸貿易の禁止、日本漁船の一掃、公入札の

否定(例えば、鉄道車両建造請負について、満鉄と三菱が公入札で1・2位を占めていた

が、これをチェコのスコダ工場より購入した。))


(項 目)日本企業への不当課税
(件 数)
 400件
(事件の内容)
 (1)大連港の二重課税(一度支那の港に入港された商品が他の港に入港するときは再び

課税されない措置がとられていたが、日本商品が大量に入る大連港だけは二重課税され

るようになった)、(2)それまで課税対象でなかった日本人経営の炭鉱への課税、(3)日本

商品に限定して地方税の課税、が行われた結果、日本商品の価格が高騰し、日本企業は

経営困難に陥った。


(項 目)日本人居留民への圧迫

(事件の内容)
 日本人殺害、日本人凌辱、日本人農場放火、デマ宣伝、その他旅券の不発行などの圧

迫を受けた。

 そのような排日活動によって、例えば、奉天市内にあった百数十戸の日本人街は、満州

事変直前にはその6分の1にあたる23戸にまで減少した。


(項 目)排日教育政策
(事件の内容)

 教科書に「日本民族は生来侵略を好む民族である。・・・」(新中華歴史課本高級用第4

冊)などの言葉が記され、意図的に反日意識を煽(あお)るものが氾濫した。

 また、日本人学童への物理的圧迫として、昭和2年9月だけでも、投石や小刀で脅された

事件が156件起こった。

 また、支那の児童が日本人経営の学校に入学すれば、漸次(ぜんじ)親日的になるとし

て、昭和2(1927)年9月にこれを制限する訓令を出し、昭和5(1930)年には遼寧省政府

が、満鉄付属地の日本人学校への支那人の入学を取り締まるという密令を出し、さらに支

那の学校が「日本人ノ文化機関ヨリ補助ヲ受クルコトヲ禁」ずるという密令を発して、日本と

友好関係を結ぶことを妨害した。


(項 目)
朝鮮人圧迫
(件 数) 80件
(事件の内容)
 暴行虐殺事件など多数発生。

 これらの中には、20数名の死者を出す事件があった。

 また昭和6(1931)年の万宝山事件は満州事変の大きな要因となった。

 ※万宝山事件(昭和6年、満州長春付近の、万宝山で耕作をしていた朝鮮人が中国人

に襲撃される事件がおこり、これが殺傷事件として朝鮮に伝わったため、朝鮮在住の中国

人への復讐襲撃が行われ多数の死傷者を出した。

 これが更に中国に伝わる中で、朝鮮人を煽動(せんどう)したのは日本人だという宣伝が

なされることによって反日運動に火を付けた。)報復暴動後の平壌(現北朝鮮首都)西門通

の中国人商店街の惨状写真
 
 


 以上のような反日状況の中で、一部の関東軍軍人が、排日状況を取り締まる事なく、むし

ろそれを助長させてきた張作霖に敵意を抱いて、昭和3(1928)年に、張作霖を爆殺する事

件を起こした。(張作霖と張学良の写真http://www.history.gr.jp/~showa/chusakurin.gif

 これは日本政府の関与しない無謀な行動であったが、張作霖を排除することが排日状況

を打開する道だと確信しての行動だと事件の責任者が弁明しているように、満州は日本人

居住者にとってはきわめて厳しい環境となっていたのである。

 これは張作霖満州の治安維持と経済回復に努力せず、北京にいて満州を顧(かえり)

みなかったことに1つの原因があると言えよう。

 満州では事態改善に有効な方策は一向にとられず、張作霖の後継者の張学良が国民党

と連合して反日闘争を展開するようになったため、状況はますます悪化し満州は事実上の

戦争状態に陥(おちい)ったのである。

 そのような中で起こったのが満州事変であった。

 言わば満州事変は、満州に平和と秩序を回復することをめざした防衛措置であったので

ある。

 昭和7(1932)年に内田外相が「当時日本の当局者は、機会あるごとに彼(張作霖)に忠

告を与え、保境安民の必要を説きたるも顧みられず、その子張学良に至りては・・・・・遂に

南方政府に通じて満州より日本を駆逐せんとするの暴挙を行うに至れり。これ昨年(1931

年)9月18日の事変を惹起(じゃっき)せる真因(しんいん)なり。」と述べているのは、満州

事情を如実(にょじつ)に物語っている。

※ 南満州鉄道およびその付属地における被害一覧(被害件数1436件)
  
((PDFファイル)http://www.history.gr.jp/~showa/manpozan.gif

http://www.history.gr.jp/~showa/214_01.pdf

 
 

このように反日運動、排日暴動の激しさをご理解いただけたことと思う。当然日本としては

日本人の生命、財産を守る行動に出ざるを得なかったことは、当然のことである。更に次の

説明を読んでほしい。満州での当時の厳しい状況が、簡潔にまとめられている。

(続く)