支那事変の真相(17)

日本としては、中国共産党員(中国コミンテルン)による日本人や日本居留地に対する

虐殺、略奪、攻撃
が軽く扱われており、何の対策にも言及されていないことには、強烈な不

満を持っていた。それを満州国の独立と言う手段で達成しようと考えていたため、中国コミ

ンテルンの暴虐・策略
にはあまり言及せずに満州国の独立にのみ固執してしまった。その

ため満州問題を、満州国の独立と言う単なる政治問題(列強側が主張する侵略事案)として

しまったところに、方法論的な間違いが発生してしまったものと、考察できる。


例えば、もっともっと満州での日本人の迫害されている悲惨な状況や、
南京事件済南事件

の残虐な状況をPRして、日本の自衛策が必要であることを各国に理解させて、満州国

独立は放棄するが満州に日本の軍隊、あるいは日本軍を含む多国籍軍の駐留がある程

度必要であることを認めさせるとか、である。


まあ今となっては仕方のないことではあるが、当時の日本としては列強の一角を維持して

いたのであるから、もっともっと世界へのPRが必要ではなかったかと感ずるものである。

と言っても、リットンを含む欧米列強中国や満州への進出を狙っていたものであり、そこ

ら辺の事情も日本は十分に理解しておく必要があったものである。例えば欧米列強も入れ

満州を開発して行く
、と言った発想である。ハリマンラインも同じ考え方である。アメリカ

鉄道王ハリマンについては「日韓併合100年」2011.9.6のNO.146~148や2011.9.14~

のNO.152~などを参照願う。

 


 
詳しくは「ねずさんの ひとりごと

リットン調査団の虚構
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-540.html)を参照され

るとよい。非常に良くまとめられていますので、是非参照願います。

 


だから、尖閣諸島が日本固有の領土である証明や、護衛艦「ゆうだち」へのレーダー照射

の証拠などは、もっともっと積極的に全世界へPRすべきものと考えられるのである。その

点安倍内閣の評価は高まっていて喜ばしいことではあるが、どんでん返しのないことを念じ

たい。

 


(3)万里の長城は国境


満州は古来より中国の「絶対不可分の固有領土」ではなかった。二十世紀に入ってから

中国が初めて、満州は絶対不可分の固有領土だと主張し出したものだ。言っておくが、満

州は中国の絶対不可分の領土ではない、と言うことを認識いただきたい。


なぜ中華世界が「万里の長城」を築かなければならなかったか、を考えるとよい。万里の長

城こそが、中華世界と夷テキ世界を分けるものだったのである。


黄文雄氏の「
満州は日本の植民地ではなかった」の序文には、次のように書かれている。

「それではなぜ中国人は、先秦時代から万里の長城を築かなければならなかったのか。こ

の問いだけで、中国の歴史捏造が明らかになる。つまり中国人は古来、万里の長城以北

にある満州は、中華世界とは別世界、異域、異文明圏とみなしてきたわけである。

 満州が古来、中国の「絶対不可分の固有領土」だという主張は、中国政府が二十世紀に

入って初めて主張したものである。確かに「天下王土にあらざるものなし」という王土思想

は古代からあった。しかし満州という土地まで中国の絶対不可分の領土だという主張は、

明らかに歴史を捏造したものである。

 史実を見れば、満州は中国と不可分だというより、むしろ有史以来満州中国は万里の

長城を境に、相容れない2つの世界であった。植生圏を見ても環境が全く異なっており、文

化的・政治的に対立・対峙し続けてきた異なる文化圏であった。この2つの世界は抗争を続

けながら、それぞれ国家の興亡盛衰を繰り返してきた。それは中国史とは別の北アジア

史、東アジア史なのである。

 かって孫文は日本に対し、満州の売却を交渉したことがあった。しかし中華民国の支配権

は、建国後一度も満州に及んでいないし、日露戦争後の満州は北はロシアの、南は日本

の支配下にあった。山県有朋孫文の売却話を断った事実は、当時の満州の実情をよく

物語っている
(誰の土地だかわからないので、後々問題が起きる間も知れない)

 満州人が十七世紀初頭、万里の長城を越え、中国を征服し清国を建てたのち、満州はず

っと「封禁の地」として漢人の入植が禁止されてきた。中国人にとっても、古来から満州

地は「荒蕪」あるいは「夷テキ」の地として恐れられ、あえて長城を越えて移住するような者

はいなかった。」

 

もともと満州夷テキの地とされていた。前漢の時代には、漢より夷テキとされていた匈奴

と数々の攻防を繰り返していたが、戦い疲れて講和を結んだ時の境界線が万里の長城

あった。


その後、満州は西に鮮卑、東に
扶余が起こり、南に朝鮮に至る高句麗が起こる。高句麗

の時代まで続く続いた。途中北魏時代から契丹が隋の時代まで満州には並存する。


隋の後、(7~10C始め)の時代となると、これらの国は渤海国に取って代わられる。しかし

(10~ 12C)の時代となると女真族が起こり、華北も統一し(12~13C)を建てる。その

後はモンゴル(13~14C)に中国も満州も征服される。元が(14~17C)に替わると満

州は女真系部族の国となり、その一族の建州女真が中国全土を統一する。これが清朝(17~

20C)である。満州から起こった女真族の清国は自身の出身地を「封禁の地」として漢人

移住を禁止した。しかし1911年の辛亥革命で清国は滅びて中華民国(1911~ 1949年、

以後台湾)となったのである。その間に満州1932~1945年の間満州国として、繁栄した

のである。


と言ったところが満州と中国の歴史であるが、これを見ると、中華帝国としては一度も満州

を支配したことが無い
ことがお判り頂けたことと思う。反対に中華帝国こそが、満州人や蒙

古人に支配されていたのである。清国と元や金である。だから、満州中国の絶対不可分

の固有領土
だと、中共が言っている事は完全な捏造なのである。

(続く)