中国は明の時代に尖閣諸島は中国領土となったといっているようだが、明代にも、清代にも
、尖閣諸島は中国の領土となったことはないのである。
明の時代(1368年~1644年)の考察をまとめてみよう。
当ブログの2013.7.3のNO.41では、次のように記載した。
「・1582年(明朝)から島は中国の版図にはいり福建省管轄となり清朝末まで島の領有権
は明確であった。」
しかしこんなことは中国の得意とする捏造で「真っ赤な嘘」なのである。
尾崎重義氏の上記の論考では、明代のどんな資料でも尖閣諸島が中国(含む台湾)のも
のであるとは記しておらずに、日本のモノであると記述されていると、言っている。
(著者
尾崎重義(おざき・しげよし) 筑波大学名誉教授
1936年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
国立国会図書館調査及び立法考査局勤務後、新潟大学、筑波大学等の教授を歴任。
専門は国際法。)
中国側は、1534年に冊封使陳侃(ちんかん、と読むのか!)が明朝の使節として琉球に赴
く途中で尖閣諸島を望見し、これを「発見」だといっているようだが、こんなことがまかり通る
のなら世の中は滅茶苦茶だ。もっとも中国は滅茶苦茶な国だから、あながち本当のことに
なってしまいかねない。
まあ冗談はさておき、琉球は1372年から尖閣諸島を通って中国と通航していたので、1534
年の冊封使・陳侃が渡航するはるか162年前に、琉球の官船が、尖閣諸島を発見していた
のである。
そして1561年の郭汝霖の「使琉球録」には、「赤嶼は琉球地方を界(さかい)する島なり
(赤嶼者界琉球地方山也)」とあり、この文言が中国と日本では全く反対に解釈されている。
日本:赤嶼は、琉球のもので、中国との境界である。
中国:赤嶼は、琉球と中国の境で、中国領である。
しかし同じ郭汝霖(かくじょりん)の「石泉山房文集」には、「赤尾嶼は琉球領内にある境界
の島であり、その島名は琉球人によって付けられた」と述べた一節があることが指摘されて
いるので、上記の解釈は、日本の「赤嶼は、琉球のもので、中国との境界である。」が正し
いものである。
参考までに赤尾嶼とは、大正島のことである。(下図参照のこと。)
然るに「人民網日本語版」2012年7月28日では、「中国のモノだ」が正しい解釈だといって
いる。我々日本人は、こんな偽造のプロパガンダには、騙されないようにしたい。
中国にかかってしまうと、なんでも自分に都合のよい解釈となってしまう。これが中国の得
意とする偽造・捏造・プロパガンダなのである。(下記URL参照のこと。)
釣魚島問題で歴史的根拠がないのは一体どの国か(1,2,3)
更新時間:13:53 Jul 28 2012
http://j.people.com.cn/94474/7891234.html
http://j.people.com.cn/94474/7891238.html
http://j.people.com.cn/94474/7891239.html
次に尖閣諸島の位置関係を示す図を載せる。
「その名は尖閣諸島」http://yaeyamaocean.com/katteni/newpage-senkaku.htm より。
参考までに、尖閣諸島は(1)魚釣島(2)大正島(3)久場島(4)北小島(5)南小島(6)沖の北岩
(7)沖の南岩(8)飛瀬(とびせ)、の八つの島嶼からなっている。(8)飛瀬は(1)魚釣島と(4)
(5)北・南小島の間にある無人島(標高2m)である。
このような事実から、尾崎重義(おざき・しげよし)筑波大学名誉教授は、 「かくして、明代
の中国史料から、「明代において尖閣諸島は中国の領土ではなかった」ことが判明する。」
と結論付けているのである。
さて、次に清代(1644年~1912年)の資料では、尖閣諸島はどのように記述されていたの
であろうか。
尾崎重義(おざき・しげよし)筑波大学名誉教授は、
「清代の文献で、尖閣諸島を中国領土と明記したものは見当たらないし、清国が同諸島の
領有を宣言して併合したり、そこに実効支配を及ぼしていたりした事実はないからであ
る。」と、明確に結論付けている。
(続く)