日清戦争開始120年に考える。(24)

何故日清戦争を、戦わざるを得なかったのか。

「純粋に偶然だ」と言わせているが、これこそが純粋に意図して日清戦争120周年記念式典

に、日本人を殺して喜んでいるのである。だからわざわざ偶然だなどと言わせているので

ある。これは、「人民よ、中国共産党政府はこの記念日に日本人を殺したぞ。喜べ」と、自

分の持ち物である人民を鼓舞しているのである。


ちなみにこのブログの9月4日のNO.21で紹介した『旅順口虐殺事件』の続きを2010.11.25

~の「日韓併合100年について(29~)」の引用で紹介しておこう。

 

中国人の日本人に対するこのような残虐な行為は、この後何度も繰り返されている。

例えば小生のブログの'07.5.8の『中国の対日特殊工作(スパイ)』、'07.5.11の『通州事

』、更には'08.2.15の『中国・虚妄のプロパガンダ』にも概略が記されている。更には中国

が宣伝する「南京大虐殺記念館」に関する『でたらめ』は、'07.6.6~6.9の『南京大虐殺の虚

構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな
』に詳しく記されているので、そちらも参照願う。

中国という国は、いくら経済大国となり文化的にも世界一の大国となったなどといっても、相

変わらず馬賊・匪賊の習性が抜けきれていない国なのである。というよりも馬賊・匪賊その

ものの国なのである。注意するに越したことはない。だからノーベル平和賞などといってもど

こ吹く風なのである。それがあの国のあり方なのである。日本はよっぽど自国の安全保障

に留意しないと、いつの間にか身ぐるみはがされてしまうことになる。特に民主党政権は、

そこらへんのガードが甘いことこの上ない。もっと日本国民は自国の安全保障に留意する

必要があるのである。子供手当てなんぞに騙され、丸め込まれて、民主党に投票したこと

が大いなる間違いのもとだったのである。要は国民もそれ以上に馬鹿だった、ということ。

もうひとつ追加すると、原爆を2発落とされたからといって原爆の防御機能そのものまでも

拒否してしまうということには、この弱肉強食の世界の中では、日本を(反対に)滅亡に導い

てしまうことになる可能性が高い。日本は核武装して中国、ロシアの脅威から自国を守る必

要がある、というものである。


しかし中国は何事にも大げさに言い触らす習性があると見えて、被害者を葬った「万忠墓

という墓には「一万八百余名」と記されているという。しかし、各種の証言は次の通り。


・ 有賀長雄『日清戦没国際法論』・・・・・500名

・ 『タイムズ』(1894.11.28)・・・・・200名

・ 『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・・2000名

・ フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・・1500名


これはWikipediaよりの引用であるが、正確な史料もなく戦死者か虐殺者かの区別もはっき

りしないという。日本兵の死体への陵辱された跡を見せ付けられれば、多分誰でも激高し

たであろうことは理解できるし、しかも市街戦もあり、逃げ隠れた清国兵の掃討時には巻き

添えで民間人も犠牲になったこともあろうと推測される。これも清国兵が軍服を脱ぎ便衣兵

としてゲリラ戦を仕掛けてきたことから致し方ないことである。中国の言うように「一万八百

余名」でなく、「一万八千余名」であれば、それは喜ばしい限りである。この世から中国人が

少なくなればなるほど世界は平和となろう。南京大虐殺記念館の30万人も虚構の数字で

あるように、この数字も白髪三千丈の類の反日プロパガンダの一種なのである。


しかし日本は「不平等条約」の改正を悲願とし、この戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度

に関わりなく戦時国際法を絶対遵守することを国内外に宣伝してきていたので、マスコミの

この種の批判に頭を悩ました。日本批判が高まる中、伊藤博文は政府として正式な弁明を

することになり、弁明書を発表した。それは、陸奥宗光により、アメリカの各新聞に掲載

れた。その内容は次の通り。

101125(29)

1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡

2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった。

3. 住民は交戦前に逃亡していた。

4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するように命令されていた。

5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

6. 日本側は軍紀を守っていた。

7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。

8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ

つれてこられることになっている。


アメリカの新聞には、上記のNO.7を省いたものが1894年12月17日・18日の両日に掲載

された。弁明そのものは虐殺があったことを肯定しつつも、やむを得ざる理由があったと

述べ、さしたる虐殺はなかったとするものであった。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明する

というやり方は、アメリカ側から好感を持って迎えられた。・・・・・とWikipediaは述べている。

そして海外の論調も次第にこの旅順虐殺事件のようなものは戦争ではつき物であって、欧

米でも例がないわけではないという風に変化していった。そしてアメリカとの条約改正は、

翌年1895年2月5日にアメリカ上院で批准され、同時に旅順虐殺事件も終焉していったの

である。ちなみに下関条約は、4月17日に締結されている。しかし上記の弁明には、清国

兵の日本兵への陵辱の具体的な事実は述べられていない。軍服を脱いだことには当然言

及しているが、この身体への陵辱の具体的な事実もしっかりと伝えるべきであったろう。

そうすれば世界からの理解はもっと早く得られたものと思う。だから、中国漁船衝突のビデ

オなどはさっさと公開したらよかったのである。


ちなみに「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う戦陣訓は、この旅順での日本兵捕虜への身

体への清国兵の陵辱を見た山縣有朋が「このような残虐な仕打ちを受けるなら、捕虜にな

ったら死んだほうがましだ」と慨嘆したと言う。山県有朋はこの戦いを指揮した第一軍の司

令官(11/22,NO.26参照)であった。この陵辱された日本兵を見た山県有朋の心境はいか

ばかりであったことか。この「生きて虜囚の辱めを受けず」をネットで検索してみると、大半

のネット記事ではこの事実に言及されていない。その代わり日本軍の悪しき習性のような

言い回しが多いことにはびっくりする。こんな馬鹿な不勉強な日本人が多いことに驚くと

共に、日本の先達を冒涜していることに怒りを感じ日本の先行きの暗さに慨嘆せざるを得

ない。この山県有朋の慨嘆は、小生のブログ'07.10.3「北京オリンピック(5/6)」でも言及し

ているので、是非参照願いたい。中国人のチベットやウィグルへの残虐な仕打ちを見るに

付け、この手の中国人の行為は中国人の本性から出ているものであろう。なんといっても

中国人は自分の子供を殺してその肉で客人をもてなす国柄なのであるから。これも小生の

ブログ'08.2.17の「中国・虚妄のプロパガンダ(6/8)」を参照願う。


2010年9月7日の中国漁船の日本巡視船への体当たり事件の、民主党政権の処理の仕

方の拙劣さは、目を覆うばかりである。いかに明治の先達の日本を思う気持ちの重たかっ

たことか。事件の内容を知るにつけ、そのことをつくづくと思い知るのである。この一割で

も、菅・仙石にあれば、中国漁船衝突事件も、もっと日本側に利するように使えたのであり、

レア・アースの輸出規制などを中国は発動出来なかった筈である。だから菅・仙石のような

輩を非国民というのである、本当に頓馬な仙石よ。
101126(30) 

 

さて話を元に戻す。これらの中国側の論調を読んでも、日清戦争の事を明確に日本の侵略

だと断言はしていない。遠まわしに日本に侵略された、日本が侵略して来たなどと言う言い

回しをしていることにお気づきの事と思う。


中国共産党も、この日清戦争中国に非があると言う負い目があるので、明確に日本の

侵略戦争だったなどとは断言していないようだ。そんな事を言うと、日本から大いに反論を

食らわされると思っており、そうなると、日清戦争に託(かこつ)けて今やっている「反日」や

反腐敗運動」の箔が薄れてしまいかねないと、危惧しているのであろう。


それではいよいよ、日清戦争何故日本は戦わなければならなかったのか、に議論を移

そう。

日清戦争へ至る過程は、明治維新にまで遡る。


皆さんは何故唐突に「征韓論」などが言われだしたのか、ご存知でしょうか。不肖小生も詳し

くはなかった。

突き詰めてみればこの「征韓論」の元が、日清戦争の原因へと繋がっていたのである。

この日清戦争への道は、この征韓論から次の様な出来事を経ながら、続いていったので

ある。
 

 

1、明治元年1868年、朝鮮の日本国書受け取り拒否事件(征韓論おこる。

2、明治6年1873年、牡丹社事件琉球処分台湾征伐と琉球の日本帰属確定

3、明治8年1875年9月、江華島事件勃発(日本軍艦の短艇江華島より砲撃される。

4、明治15年1882年7月、壬午ジンゴ軍乱勃発(大院君ら守旧派の反乱、日本人惨殺

れる。

5、明治17年1884年12月、甲申コウシン事変勃発(金玉均のクーデターを袁世凱が鎮圧、清

国兵は在留日本婦女子30余名を陵辱殺害し、多くの在留日本人も虐殺された。
天津条約。)

6、明治18年1885年、明治19年1886年第1次、第2次露朝密約事件(不凍港確保狙う

ロシアが秘密裏に朝鮮と軍事密約を交わす。このため英国は日本に接近、日英同盟の元

となる。

7、明治19年1886年8月1日、清国の日本威嚇長崎事件勃発(清国北洋艦隊が日本に

威嚇訪問、長崎に上陸した清国兵が交番を襲撃し双方に死傷者を出す。

8、明治27年1894年3月29日、朝鮮に甲午農民戦争東学党の乱)が勃発(東学を信仰す

る農民たちが反乱を起こしたため、朝鮮は清国に援軍を要請する。中国は天津条約に反し

無断で増援派兵したため日本は交戦状態に入る。豊島沖海戦1894.7.25

既に豊島沖海戦は始まっていたがこのようなステップを経て、1894.8.1に日本は清国に

戦を布告
し、正式に日清戦争が開始される事となった。東学党が1894.3.29に蜂起し全国

的な内乱へ発展したため、日本は清国に対して朝鮮の近代化の内政改革を提案するも、

清国はそれを拒否し極秘に派兵を続けていたため日本も堪忍袋の緒を切ったのである。


さて上記のステップごとに細部を見てみよう。

 

1、明治元年1868年、朝鮮の日本国書受け取り拒否事件

1868年、明治新政府は日本が新しい国となったことを諸外国に通告した。朝鮮にも当然修

交したい旨日本国の国書を、当時朝鮮との窓口であった対馬の宗氏を通じて、手渡そうと

した。

しかし朝鮮は、日本からの国書の受け取りを拒否した。

翌年の1869年にも再度、宗氏を通じて国書受け取りを要求したが、朝鮮は再度受け取りを

拒否。理由は、日本の国書に、中国から使用が禁止されている「皇」「勅」「朝廷」などの文

字があったからである。


そこら辺の事情を小生のブログ「日韓併合100年(12~)」(2010.11.1~)から引用してみ

よう。

 

「朝鮮と宗主国である清国との関係は、繁文縟礼と言えるほど「礼」によって厳しく統制さ

れ、このように朝貢品の内容は厳しく規定されており、規定の厳守を義務付けられていた」

黄文雄氏は『韓国は日本がつくった』で述べている。例えば朝鮮から清国への「国書」も、

上奏文としての格式が厳しく決められ、その書式や用語は、一つ一つ中華朝廷の礼部によ

っ厳格にチェックされていた。例えば北京朝廷のみが使用できる言葉として、天皇の「皇」

や「奉勅」の「勅」、「朕」、「詔」が定められており、朝貢国である朝鮮の国書では使うことが

許されていなかった。そのため、明治維新直後に明治新政府対馬藩を通じて李朝へ渡そ

うとした国書に、「皇祖」とか「奉勅」と言った朝鮮では使用が禁止されていた言葉が記載さ

れていたため、李朝朝廷ではパニックとなり日本の国書の受け取りをかたくなに拒否して

いる。このことが清国に伝わってその逆鱗に触れたら一大事なのである。このため日本は

何度も国書を送り、日本が明治新政府となったことを伝えようとしたが、朝鮮は受け取りを

拒否したのである。

 

そのため、西郷隆盛は自ら朝鮮に赴き説得をすると主張し、もし自分が殺害されたら軍を出

してくれと主張した。しかしこの西郷の意見は明治政府に入れられなかった。そのため西郷

は下野し、「征韓論」が言われだした。しかしながら朝鮮は中国の属国であったことから、

日本は中国(清国)の存在を意識せざるを得なかった。

(続く)