日清戦争開始120年に考える。(28)

8、明治27年1894年3月29日、朝鮮に甲午農民戦争東学党の乱)が勃発、そして日清戦争

1890年頃には、朝鮮からの輸出先はほとんどが日本で全体の9割を占めていた。その中

身は米穀がその30%以上であった。そして1889年(明治22)、朝鮮での凶作を理由に

穀物の輸出を禁止した。そのため日本商人は大打撃を受け、朝鮮との外交問題となった。

日本は防穀令の施行は通商章程に違反するとして抗議、賠償請求した。


この例でも分かるように農村も荒れていた。壬午軍乱の翌年の1883年頃から農民の反乱

が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日全羅道での民衆の反乱に対し

て、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして東学の弾圧を始めた。東学とは東の

学で、儒教、仏教、道教などを合体した民族的宗教である。西学とは西の学でキリスト教

言う。東学は「お札をもらい呪文を唱える」だけの単純なものであったので、農民に支持が

広がり瞬く間に各地に広がった。3月29日には東学党全羅道で蜂起し国政の改革を唱

えたため、支持する農民を巻き込み全国的な内乱へと発展していった。政府軍はこの反乱

を鎮圧することが出来ずに、閔氏政権は、清国に援軍を要請する。


これを甲午農民戦争東学党の乱)と言う。

清国公使は日本外務大臣陸奥宗光に対して「朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出

兵する」旨6月6日に通告する。陸奥宗光は「朝鮮は清国の属邦とは認めず」と抗議し、駐

清代理公使小村寿太郎は清国政府に「公使館保護のため日本軍も出兵する」ことを翌

6月7日に伝える(天津条約に準じて通告)。


朝鮮政府は日清の武力介入を避けるために東学党の国政改革案を受け入れて反乱を収め、

1894年(明治27)6月10日
全州和約を結んでいた。朝鮮は日清両軍の撤兵を要請し

たものの両軍とも受け入れず、6月15日、日本は「朝鮮の内政改革を日清共同で進める

旨の提案を行うも、清国はそれを拒否する。その後イギリスが調停に乗り出し、ロシアは

日本軍の撤退を要求する。7月9日清国イギリス調停案を拒否する。



日本は駐露公使よりロシアの干渉はこれ以上ないとの情報により、7月11日に清の調停

拒否を非難
清との国交断絶を伝える。これに激怒した光緒帝も7月14日開戦を決定す

る。回答に3日の猶予をもらった朝鮮は「内政改革(宗属関係の撤廃)は自主的に行うの

で、日清両軍の撤兵」を再度伝えてくる。19日には日本から5日の猶予をもって朝鮮改革

案の提起
をせよと清国に迫っている。現地では、7月25日には豊島沖の海戦が戦われて

おり、8月1日に日清両国が宣戦布告する。したがって日本側は朝鮮、清の回答待ちの状

態であったため、陸奥宗光は「外交にありては被動者(受身)たるの地位を取り、軍事にあ

りては常に機先を制せむ」と回顧している。


豊島沖海戦
ほうとうおきかいせん)は次のような経過で戦われた。

以下はWikipediaと『東郷艦長の決断』
http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/34327394.html を参照してまとめている。


(1)
清国駐在の領事・武官から清軍の増派を知らされた日本軍大本営は、1894年7月19日

に同日編成された連合艦隊に、1.朝鮮半島西岸制海権と仮根拠地の確保、2.兵員増派

を発見次第輸送船団と護衛艦隊の破砕を指示した。


(2)
1894年7月25日早朝
、日本海軍第一遊撃隊巡洋艦吉野(4216t,15cm4門)、秋津島

(3150t,15*4)浪速(3709t,26*2)は、朝鮮北西岸豊島沖で清国巡洋艦済遠(2440t,21*1)、

広乙(1000t,12*3)の2隻と遭遇する。


(3)
3000mに接近した時、済遠が21cm砲を発砲し戦闘が始まる。その後霧が濃くなり清国

艦隊は逃走を始める。


(4)
広乙は追い詰められ擱座し乗員を下船させた後爆破。済遠は国旗を降ろし降伏の意を

示したかと思うと逃走を図る。


(5)
この追跡戦の最中に、吉野と浪速は、清国軍艦操江と英国商船旗の高陞号(こうしょう

ごう)に遭遇する。


(6)
高陞号は清国軍にチャーターされたイギリスのジョージ・マディソン商会の商船であった

ため、浪速の艦長「東郷平八郎大佐は、高陞号に信号を送り停船させて臨検を実施する。


(7)
短艇高陞号に乗り込んだ士官は、清国兵1,100名、火砲14門、弾薬多数が満載さ

れていることを確認する。


(8)
東郷大佐は高陞号を拿捕すべく”本艦に続航せよ”と信号を送るも、従わず”清国兵が騒

いで続航できず”と信号を送ってくる。


(9)
東郷艦長は清国軍が拿捕に応じないと判断し、”直ちに船を見捨てよ”と信号を送る。

(10)再度高陞号に士官を送り、清国兵がイギリス人船長らを脅迫していることを確認する。

その後も清国兵たちはイギリス船長らを脅迫し続けて、日本側の指示に従わず、短艇派遣

信号を繰り返す。


(11)
そのため東郷は高陞号の撃沈を決意し、”短艇送り難し、直ちに船を見捨てよ”と最後

の信号を送る。そして「危険」を意味する信号旗”B旗”を掲揚する。


(12)
そして、浪速は砲撃と魚雷攻撃高陞号撃沈する。清国兵1,000名以上が死亡

し、イギリス人船長以下3名を救助する。


(注)Wikipediaの「日清戦争」では清国兵を50名救助していると記されているが、他の史料

にはその記述はないので、これは間違いであろう。『7月25日、今日はなんの日?高陞号

事件起きる。日清戦争
http://news.livedoor.com/article/detail/3243936/にもその旨記載

されている。

(続く)