(13)高陞号を撃沈されたイギリスの対日世論は沸騰し、東郷艦長の処罰と日本政府への
損害賠償を要求したきた。
(14)しかし当時イギリスを代表する国際法学者のジョン・ウェストレーキとトーマス・アース
キン・ホーランドの両氏がタイムス紙へ「東郷艦長の取った決断と行動は戦時国際法のい
かなる条文に照らしても全く正当である。」と投稿すると、批難は一気に沈静化する。
(15)ロンドンタイムス紙の論文を次に示す。これは『「明治」という国家』からの引用である。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/07/post_524.html
高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め
宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このこと
は、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。
さればたとへ高陞号の船員は、初め戦争が既に起こったことを知らなくても、日本の士官が
わが船に乗りこんで来た時、これを承知したものと見做さねばならぬ。
この時に当たってその船が英国の国旗を掲げていたといないとは、敢えて注意するにたら
ない一些事に過ぎない。
当時日本の軍艦は、捕獲の目的をもって、高陞号に兵員を乗船せしむることは、とうてい実
行できないという見込みをもっていたので、日本の艦長は、高陞号をその命令に従はしむる
ためには、いかなる暴力を用いるとも、それは固よりその権内にあることを知らねばなら
ぬ。そもそも、高陞号には、日本軍攻撃のため派遣せられた遠征の一部隊が乗船していた
ので、日本人がその目的に達することを防止するためには、これを撃沈したことも、正当の
所為といはねばならぬ。
また沈没後に救助せられた船員は、何れも規則通り、自由の身となることができたので、
この点もまた日本の行為は、国際法にいはんしたものということはできない。
故に日本政府は、これがため決して英国に対するの義務なく、また船主及び溺死せる欧人
等の家族は、日本に対して、損害を要求する権利はない。
(16)更には沸騰した英国世論に対して、日本側は積極的に情報を開示し、救助した英国
船長の証言などから、事の次第が判明。東郷艦長が2時間半の長きにわたり説得を試み
た末、国際法に則り、予告信号を出して砲撃していることが判明し、国際的に納得したこと
も大きく寄与している。
東郷平八郎はイギリスに留学して、国際法を修めていたので、東郷の取った処置には非の
うちどころがなかったのであった。
中国漁船衝突事件のビデオの公開を最後まで拒否していた現民主党政権のやり方と比べ
ても、雲泥の差がある。APECを控え、ことを荒立てぬとする了解事項が、菅・仙石政権と
中国共産党指導部との間にあったに違いない。そしてロシアは中国と通じており、今国後島
を訪問しても民主党政権は強硬には出ないと踏んでのメドベージェフの訪問であろう。
全くこいつらに日本を任せて大丈夫か? 『風知草:ビデオ騒ぎの教訓=山田孝男』
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20101108ddm002070070000c.htmlも参照願う。
(17)またこの事件は高陞号が清国兵を満載していたことにより、中国側が事前計画にもと
づいて、天津条約に背馳し、日本の最後通牒を無視し朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を
集中させつつあったことを全世界に暴露した。これによって、中国がこの戦争において侵
略者であることを示した事件でもあった。天津条約によれば朝鮮に派兵する場合には通知
することが義務付けられている。天津条約については当ブログの11/5を参照のこと。
『豊島沖海戦』http://ww1.m78.com/sib/hoto%20battle.htmlを参照願う。
(18)日本の最後通牒とは、上記のURLによると、次のように記述している。
[豊島沖海戦は日本の宣戦布告8月1日以前の7月25日におきているのである。詳細にい
えば、日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相
当の考慮をおしまず、もし、この際(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と
認む」と警告(五日猶予付き最後通牒)した]
(19)なお『日清戦争前夜の日本と朝鮮(24)』
(http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi060.html)によれば、事実上の最
後通牒と言われるものは、1894年7月12日に閣議決定し、小村臨時代理公使をして清
国政府に通知させた。(清国政府への通知は14日)
その内容は、小生の独断と偏見で以下に概略してみる。
『朝鮮国の内乱はその内政に起因している。よってわが国は朝鮮の内政を改良してその根
源を根絶させたい。それを実行するには朝鮮との関係が深い貴国(清国のこと)とわが国が
共に協力する必要がある。これを貴国に提案するも、これを却下している。その代わりわが
国の兵の撤退を促すだけであった。更に英国公使が好意で両国意見が一致するように提
案されても、それを意に介さずにただわが国の撤兵を主張するのみ。貴国は事を好んでい
ると思わざるを得ない。今後生ずる如何なることも、わが国の責任ではなく貴国の責任とな
ろう。』
これがいわゆる清国に対するわが国の最後通牒なのである。
そして7月19日には、次のように『本日より五日間を以て正式案を出さなければ、どうなっ
ても知らないぞ。且つ清国より増兵を派遣することは、日本国はこれを威嚇の処置と看
做す。』と伝えているので、その五日間とは7月19日から7月24日までの間なので、7月
25日の高陞号の撃沈は紛れもなくすでに戦争中のことなのであった。ちなみに19日に
日本大本営は連合艦隊を編成している。(1)を参照のこと。
なお上記の(18)項では『脅迫』としているが、(19)では『威嚇』と表現している。この違いはど
ちらが正しいか分からないが、どちらにしても意味は同じである。
(20)かくして日清戦争は開始されたのである。
(上記は小生のブログ「日韓併合100年」2010.11.10~16より引用している。また以下
も2010.11.16~18よりの引用である。)
それでは陸上での戦いはどのように開始されたのか。それは牙山の戦いであった。
ちなみに7月14日の日本の最後通牒に接した李鴻章は牙山の清軍に平壌への海路撤退
を命じたが、それが困難なため増援のために派遣した清国兵の一部を乗せていたのが
高陞号であった。
この豊島沖海戦が海上での日清戦争の最初の主要な戦いであったが、その陸戦は『成歓
の戦い』(せいかんのたたかい)であった。またの呼び名を牙山の戦いと言い、この牙山こそ
高陞号が清国兵を運び込もうとした先なのでであった。
東学党の乱を鎮めるために朝鮮より援軍を求められた清国は、6月8日にはすでに歩兵
2,500名、山砲8門を牙山に上陸させ、総勢3,880名になっていた。1894年7月28日
牙山を攻めるべく出発した日本軍のうち、混成第9旅団歩兵第21連隊は翌早朝3時20分
に待ち伏せ攻撃を受け松崎直臣大尉他が戦死し、日本軍最初の戦死者となる。ラッパ手
木口小平二等卒も敵の銃弾に倒れ、死んでもラッパを放さなかった(と言う逸話が伝えられ
ている)。これは「安城の渡しの戦い」である。清軍は戦闘には不利と判断し牙山より東北
東18kmの有利な成歓駅周辺に主力部隊を配置していたが、日本軍は7月29日深夜左
右から攻撃を仕掛け午前8時過ぎには敵拠点を制圧し、程なく牙山も占拠する。日本軍戦
死者88人、清国軍死者500人前後と言う。
1894年8月、清国軍は平壌(ピョンヤン)に1万2千名の兵を終結させていた。そのため
日本軍混成第9旅団は9月15日に攻撃を開始した。午後遅く平壌城に白旗が上がる。
しかし清国軍は休戦の前に、傷病兵を置き去りにして逃亡してしまった。これが『平壌の
戦い』である。
(続く)