日清戦争開始120年に考える。(32)

以上のことの理解を助けるために、念のため7月26日付けの「東洋経済オンライン」を次に

紹介する。

 

中国で沸騰、「なぜ日清戦争に負けたのか?」

120年前を起点に語られる民族復興のストーリー


西村 豪太:週刊東洋経済記者     2014年7月26日
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1895年、日清戦争の勝利を記念し東京・日比谷に造られた凱旋門(提供:MeijiShowa.com/アフロ)   

120年前の7月25日、日清両国の海軍が仁川の沖合で激突した。いわゆる豊島沖海戦

ある。これによって日清戦争(中国では”甲午戦争”)の火蓋が切られた。両国が正式に

を布告したのは8月1日だが、中国では7月25日が日清戦争が始まった日として認識され

ている。そのため、25日には中国の主要メディアがこぞって日清戦争敗北の意味を振り返る

特集記事論説を掲げた。



中華民族の偉大な復興」という目標

日本ではほとんど知られていないが、中国では今年に入ってから、さまざまなメディアが

「甲午戦争」を振り返るキャンペーンを張ってきた。


習近平国家主席
も、「甲午」の意味合いを強調している。6月9日には中国科学界の重鎮を

集めた演説で「今年は甲午の年だ。このことは中国人民と中華民族にとって特別な意味を

持つ。我が国近代史上においても特別な意味がある。……そしていま、われわれは中華民

族の偉大な復興
という目標にかつてなく近づいている」と述べた。ここでの主要なメッセー

ジはイノベーションの重要性を訴えることにあるのだが、そのインパクトを増すために「甲

午」が使われているのだ。


中華民族の偉大な復興」は習政権のキーワードだが、その原点には「甲午」の敗北があ

った。中国人にとって清朝崩壊のきっかけとなった「甲午戦争」は決定的に重要なのだ。

それだけに、メディアで取り上げられるさいにも屈辱の歴史を振り返り、国民に気合いを入

れるような論調が多い。


そのなかで出色なのが、国営通信社・新華社による劉亜洲・空軍上将(上将は将官の最

高位)へのインタビューだ。国防大学の政治委員である劉将軍は、対外強硬派としての派

手な言論活動で知られる。戦略論から小説の執筆までこなす異色の軍人だ。


夫人
李先念・元国家主席の娘である李小林氏で、劉将軍はいわゆる「太子党」(共産党

幹部の子弟グループ)の人脈に連なる。中国人民対外友好協会の会長を務める李氏は習

主席の幼馴染みとされ、政権中枢に直結するキーパーソンとして日本政府もマークしてい

る。そうした背景を持つ人物の日本観は、習主席を取り巻く人々の発想を探る上で興味

深い。


劉将軍によれば、日清戦争は近代史上において中国軍と外国軍の武器、装備の差が最も

小さかった戦争だった。にもかかわらず惨敗した理由は、両国の近代化への取り組みの違

いにあるという。日本はすでに国民国家になっていたのに、清国は西洋のモノは取り入れ

ても、意識は前近代のままだったというのだ。これは、別に珍しい考えではない。


3.11があったから尖閣を国有化?


彼は一歩踏みこんで、大事なのは「国家戦略」だという。「中国には何世代にもわたる長期

的な大戦略や、それを実行しようという意思が欠けている」。一方、日本には大陸を征服

るという明確な戦略があったという見立てだ。劉将軍は「歴史上、日本には2つの特徴が

ある。一つは強い政権が成立すれば朝鮮半島の征服を目指すということ。もう一つは、

大きな自然災害のあとには外国への武力行使を求める声が高まるということだ」と主張する。

尖閣国有化もそうした日本の伝統的な行動様式に沿っているとの解説つきだが、このあた

りは日本人としては首を捻りたくなるところだ。よく日本では「中国には長期戦略があるが、

日本にはない」といった論評があるが、先方からは逆に見えるらしい。
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    (http://toyokeizai.net/mwimgs/6/1/-/img_6158c2865570dcaba2f45084211c769c501575.jpg
1894年7月29日、安城の渡しの戦い。ラッパ手の木口小平が被弾、死んでも口からラッパを離さなかった物語は、長く教科書に載った。なお日清戦争朝鮮支配を巡る激突であり、戦場のほとんどは朝鮮半島だった(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)

「甲午戦争」の惨敗によって、中国人は覚醒した。開戦後の1894年11月に興中会を旗揚げ

した孫文は、1911年の辛亥革命によって清朝を打倒。その10年後には中国共産党が結成

される。1893年生まれの毛沢東、1904年生まれの鄧小平たちは甲午戦争の敗北が引き起

こした中国社会の激動のなかで青年期を過ごし、救国への意識を強めた。

そうしたインパクトを中国に与えたという点で「われわれは日本に感謝しなければならな

い……中国は日本の最も古い先生で、日本は中国の最も新しい先生だ。甲午戦争がなか

ったら、中国はあとどれだけ眠っていたことか」と劉将軍は語る。


日本との戦いは甲午戦争から始まった


彼は、日本軍の強さの根底には武士道があったという認識のもとに清国軍の腰抜けぶりを

慨嘆してやまない。その中国人に、再び「中華民族」としての精神のよりどころを与えたのが

中国共産党だという。中国において日本を語ることは、すなわち自国を語ることだということ

がよくわかる。中国において共産党の正統性を強調するためには、甲午戦争から始まる

日本との戦いというストーリーが欠かせないのだ。


中国が日本に「歴史問題」を提起するときは満州事変以降の日中戦争だけを対象にしてい

るわけではない。東アジアの地域秩序はリセットすべきだという発想が根底にある。韓国と

歴史問題で共闘したり、日本領とすることが日清戦争のさなかに閣議決定された尖閣諸島

を自国のものだと主張するベースにも、こういう考えがあるのだ。


日本の敗戦から70年めとなる来年夏に向け、中国は「歴史問題」を繰り返し提起してくるだ

ろう。その根っこに日清戦争があることを日本人はもっと認識しておく必要がある。

http://toyokeizai.net/articles/-/43760
(続く)