日清戦争開始120年に考える。(44)

安倍晋三総理は、だから、現在は個人として参拝せざるを得ないので、個人として参拝して

いるのであるが、しかし国の為に殉じた方々を祀ることは、公的行為としても必要ではない

のか、と思うのである。これはいわゆる国の宗教的行為などではなく、人間としてのまた

国家としての当然の気持ちであり、行為でもある。日本国民としての当然の義務でもある。


このことは、自国を他国の侵略から守る事の重要性の認識を強化することにつながる。

馬鹿な中韓は、すぐさま軍国主義の復活に繋がるとかの難癖を言いたがるが、とんでも

ない。お前達の侵略から日本を守るために、ぜひとも必要な尊い行為なのである。


この気持ちや行為を中国は、削ぎたくて削ぎたくて仕方が無いのだ。その為アメリカに難癖

をつけては、日本の手足を縛ろうと画策していたのである。このことは、2014年9月号

正論」の中西輝政の論考「集団的自衛権の衝撃、日本を歪めてきた「日中友好」の闇

は打ち砕かれた
」に詳しく述べられている。

 

 

(14)集団的自衛権の衝撃、中国の介入!

もともと日本国政府は、「集団的自衛権は保持しているが、行使は出来ない」などと言う解

釈はしていなかった。


この解釈が打ち出されたのは、1972年10月14日の参院決算委員会に提出された内閣法

制局の新解釈からである。それまでは憲法上持たないということではなく、集団的自衛権

は持っている
と、はっきりと国会でも答弁していたのである。


このように集団的自衛権は行使できないなどと言わなければならなかった背景には、中国

と米国、主に中国からの圧力があったからである。


どんな経過をたどって集団的自衛権持っているが使えない、などという解釈をするように

なったのか、を中西輝政氏の先の論考をたどって見てみよう。


(ⅰ)戦争放棄朝鮮戦争

先ず米国から与えられた現日本国憲法の議論では、次のように述べている。

1946年6月26日帝国議会憲法改定特別委員会で、当時の吉田茂総理は次のように回

答している。    『自衛権としての戦争も交戦権も放棄している


この時点では、文字通りの(馬鹿な)憲法解釈だ。


しかし1948.8月と9月南朝鮮に李承晩の大韓民国、北半分に金日成朝鮮民主主義

人民共和国
が建国され、朝鮮半島はより不安定化された。


これはソ連が「日ソ不可侵条約」を破って1945.8.8満州国に攻め込み、更に1945.8.24

に朝鮮北部を占領してしまったことに起因する。その為慌てた米国の(お馬鹿な)トルーマ

ン大統領がソ連朝鮮半島南北分割占領を提案し、1945.9.8に米軍が仁川に上陸して

南部を直接統治することになる。


そしてその後、1950年に起こった朝鮮戦争が、この憲法解釈を変えていったのである。

韓国と北朝鮮の誕生はソ連の朝鮮への侵攻の結果であった。それが朝鮮を南北に分断さ

せたのである。この共産主義の浸透が、日本国の憲法解釈に大いに影響したのである。

1950.1.12に米国のアチソン国務長官アチソンラインを提案して、フィリピン、沖縄、

日本、アリューシャン列島をアメリカが責任を持つ防衛ラインだとした。これは太平洋の制

海権は他国には渡さないと言う意思表示であったが、金日成はこれを朝鮮南部の放棄と受

け取った。そこには朝鮮半島は含まれていなかったからだ。そのため北朝鮮は中国とソ連

の支援を受けて、朝鮮半島の統一支配を目指して突如として38度線を越えて、1950.6.25

南朝鮮への軍事侵攻を開始した。朝鮮戦争 の始まりである。


ソ連
は武器援助などの間接支援であったが、中国毛沢東人民解放軍を直接参戦さ

せた。これは国共内戦の結果、毛沢東の軍門に下った地方軍閥の60万の軍隊を、この朝

鮮戦争に参戦させた。これはこれらの軍閥の軍隊を毛沢東は信用できなかったために、朝

鮮戦争をして消耗させたものであった。毛沢東にとっても渡りに船で、金日成に援助の約束

を与えた。


この朝鮮戦争は、1953.7.27板門店北朝鮮中国軍国連軍の間で休戦協定が結

ばれ、停戦となる。


この朝鮮戦争は日本にも大きな影響を与えた。共産主義勢力の浸透が大きな脅威と感じ

たアメリカは、日本の独立を急がせた。そして1950.8.10警察予備隊を設置させた。

それから1951.9.8サンフランシスコ講和条約が調印され、同時に日米安全保障条約

署名された。講和条約1952.4.28に発効し、連合国との戦争状態が終結した。


その後警察予備隊は、1952.10.15保安隊となり、1954.3.8には日米相互防衛援助協定

が締結され、日本は自ら防衛する責任を果たすよう義務づけられる。そして保安隊は

1954.7.1に陸上、海上、航空の自衛隊に改組されたのである。


この結果憲法9条の解釈は変更を余儀なくされた。


自衛権としての戦争も交戦権も放棄している』などと言う憲法解釈では、日本の独立は

おぼつかない状況となってしまったからである。


どのように解釈変更されたかに入る前に、以上の日本を取り巻く情勢の変化を整理したい。

先ず上記の出来事を時系列に並べ替えた見よう。

 


1945. 8.  8  日ソ不可侵条約を無視して、ソ連満州国に侵攻

1945. 8.15  大東亜戦争の終結

1945. 8.24  ソ連朝鮮北部を占領

1945.  9. 8   米軍、仁川に上陸し南部の統治を開始する。トルーマンが南北分割統治を提

案した。 これはソ連に朝鮮全体を占領される事を恐れたためにトルーマンが提案したもの。

1948.  8.15  李承晩の大韓民国成立。

1948.  9.  9  金日成の朝鮮民主主義臣民共和国成立。

1950.  1.12  米国国務長官アチソンが、アチソンラインを表明。防衛ラインに朝鮮を含まず。

1950.  6.25  金日成北朝鮮が、38度線を越え韓国へ軍事侵攻。朝鮮戦争

1950.  8.10  日本に警察予備隊発足

1951.  9.  8  サンフランシスコ講和条約調印、日米安全保障条約調印

1952.10.15  警察予備隊保安隊へ改組

1953.  7.27  朝鮮戦争板門店休戦協定北朝鮮軍、中国軍国連軍

1954.  3.  8  日米相互防衛協定調印、日本は自国防衛の義務をもつ。当然と言えば当然

の事だ。

1954.  7.  1  自衛隊発足。

 

これらの史実を見ると、朝鮮の分断はソ連とアメリカの思惑の結果であり、そして共産主義

の侵略を恐れたアメリカが敗戦国の日本に自衛隊を作らせたものであった。


このため当然日本は自国の防衛にも、鋭意注力する必要に迫られることになった。

(続く)