戦後70年談話はヒストリーで!(29)

朝鮮の保護国化は次のような経過で行われていった。先ず日本は、1904.8.22第1次日韓協約韓国の財政と外交に、日本が関与できるようになり、大蔵省主税局長の目賀田種太郎財務顧問に、外交顧問には米国駐日公使館顧問のダーハム・ホワイト・スティーブンスが就任することになる。

 

1905.11.17第2次日韓協約では、韓国政府が皇帝と協議の上(五大臣上訴文、皇帝への意見具申)、韓国の外交日本が監理指揮することになり、1905/12/21漢城(現・ソウル)に統監府が設置された。地方機関としては、理事庁が(Wikipediaによれば)京城、仁川、釜山、元山、鎮南浦、木浦、馬山に設けられている。そして韓国統監府の初代統監としては、1906/3/3伊藤博文が就任している。韓国合邦後は、「朝鮮総督府」に改組されている。

 

皇帝の高宗はこの日本の支配から逃れようとして、1907/6、オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に、3人の密使を送りこの第2次日韓協約(日韓保護条約)の無効を訴えようとしたが、各国はまったく相手にしなかった。しかしこれに懲りた日本は、1907.7.24第3次日韓協約外交内政も日本が監理することにしたのである。

 

日本は韓国の陰謀を途絶するため、韓国の外交権を譲れというた。だが、日本は韓国を合邦する必要はない。合邦は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治は遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以(ゆえん)なのである」伊藤博文)と言うように、朝鮮・韓国は、日本の指導監督がなければ健全な自治は遂げ難い国情に陥っていたのであった。

 

このような経過で朝鮮・韓国は日本の保護国となったのであるが、小生のブログ「日韓併合100年」の2011.9.21,NO.157~からの引用で、補足しておく。

 

韓国政府馬鹿で頓馬な韓国の学者らは、この協約が高宗皇帝(国家代表者)に対して脅迫があったから、この協約は無効であるなどと暴論を吐いているようだが、これは真っ赤な作為による虚妄・捏造なのである。

このことは”日本政策研究センター”の韓国併合「無効説」の誤謬』

(http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=43) に詳しく書かれているので、それを参照されるとよいが、その要旨を小生の「偏見と独断」でまとめたのを次に示す。必要に応じて、上記URLを参照願う。

 

これはWikipediaにもあるように、李完用らが上疏(じょうそ、大臣らが皇帝に意見を申し上げる)した「五大臣上疏文」の研究内容(青学学術論集242004/4、「第二次日韓協約調印と大韓帝国高宗」)が上記の『韓国併合「無効説」の誤謬』にて説明されている。

 

それによると、

 

この協約の締結交渉に際して、1905/11/15に高宗は、特派大使伊藤博文に「形式的な外交権だけは韓国に残したい」と提案するも、断固拒否される。すると高宗は、11/17、大臣達と協議し3点の修正案を提案し、「交渉妥協」を指示する。伊藤は韓国側大臣とこれを協議し、協約案が修正される。これを上奏された高宗は、さらに一個の修正を提案し、伊藤はこれを裁可する。そして最終案が確定し、調印の運びとなった。


・・・と言うものである。これを見ると、高宗は韓国内部では締結推進のリーダーシップを発揮し、交渉の妥協の指揮を取っていたことになり、「脅迫されていた」などの事実は一切なく、あるとすればそれは「捏造」以外の何ものでもないことになる。

 

さらに韓国は、よせばよいものを2001年に、「韓国併合再検討国際会議」を韓国政府傘下の「国際交流財団」がすべて金を出し韓国政府の御用学者を動員して、開催されている(2001/1ハワイ、2001/4東京、2001/11ハーバード大学)。韓国学者は、この協約は脅迫されて調印されたものであり、高宗皇帝の署名・調印がないから無効である、との論を主張した。しかしながらダービー大学(イングランド)のアンソニーキャティ教授は、そもそも当時には国際法なるものが存在していたかどうか疑わしく、特定の条約の合法、違法の判断はできないと主張した。更には国際法の権威、ケンブリッジ大学ジェームス・クロフォード教授も、(Wikipediaによると)「強制されたから不法と言う議論は第1次世界大戦1914~1918年以降のもので当時としては問題になるものではない。国際法は文明国間にのみ適用され、非文明国には適用されない。」と、韓国学者の馬鹿な主張を、一刀両断の下に切り捨てている。更には、英米などの列強が承認している以上、当時の国際法慣行からすると、無効と言うことにはならない、としている。

 

まあ韓国も北朝鮮と似たかよったかな国なので、自分の気に食わない史実は、しゃにむに変えてしまうのである。これって、まさに捏造なのである。だから、当時から韓国という国は信用ならなかったので、日本も3回も日韓協約を結び、結局は合邦でもしなければ韓国という国は存続し得なかったのであろう。


 

この第3次日韓協約で、日本は韓国の外交のほかに、内政も監理することとなり韓国の防衛も司ることとなっている。そして目賀田種太郎や伊藤博文らを中心に韓国経済の建て直し、ではなく構築にまい進していったのである。

 

しかしながら李氏朝鮮のままでは近代化は不可能であるとの韓国内部での危機感もあり、韓国を日本に併合してもらい、それにより韓国の近代化を図らざるを得ないという考えが台頭していた。

 

以下小生のブログ「日韓併合100年」の2011.10.06,NO.166~からの引用である。


 

1909/12/4に韓国の政治結社の「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」を、皇帝の高宗と首相の李完用に上奏している程である。しかしこれは対等合併提案であり、大日本帝国としては到底受け入れられないものではあったが、韓国内部でも今の李氏朝鮮のままではやがては韓国は滅亡する他ないという危機感があったことも厳然たる事実であった。しかしこの提案は韓国の世論を硬化させる事にもなったが、ある意味当時の世界情勢からすると、この併合反対は身の程知らずと言うことでもあった。

111006(166)

1910/6/3、日本では「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、1910/7/8には第三代統監の寺内正毅の設置した併合準備委員会の処理方針も閣議決定される。そして韓国首相の李完用に対して、1910/8/6、併合を提案する。韓国政府としても学相(文部大臣)一人の反対はあったものの、大勢としては日本による韓国の併合には大賛成であった。8/22の韓国の御前会議で李完用首相が条約締結の全権委員に任命され、1910/8/22漢城にて韓国併合条約寺内正毅統監李完用首相により調印された。そして8/29に裁可公布され大日本帝国大韓帝国を併合した。

 

これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島大東亜戦争が終わるまで日本の統治下におかれた、とWikipediaは続けている。これにより大韓帝国と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。

 

韓国内の多くの知識階級は日韓合邦を期待していた。次のその例を提示する。

 

これは「こん そして併合へ・・・」(http://konn.seesaa.net/article/11408909.htmlよりの引用である。是非ここも参照願う。


 

朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉が各民族に接してみると朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンより劣り、その他メキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り衝撃を受け、次のように述べている。「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。亡国は必死である亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外に我が朝鮮民族豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。」
朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」 ]

「こん そして併合へ・・・」(http://konn.seesaa.net/article/11408909.html)より


 

これを見ると、欧米人の間では朝鮮人は豚の境涯(境遇)と見られており、豚の境遇から脱却する術としては、日本が韓国を併合して近代化を図ってくれることしかない、と教養のある朝鮮人の間では認識されていたことが判ると言うものである。

(続く)