『米政府は1942年(昭和17年)から「戦後の日本を、2度と独立した外交政策が実行できない国にする。日本から、永久に自主防衛能力を剥奪しておく」と決めていた(★)。
アメリカが敗戦国日本に押し付けてきた”平和憲法”や東京裁判史観は、「日本から、永久に自主防衛能力を剥奪しておく」と言う目的のため設定された政策である。1947年(昭和22年)の国務省の内部文書には、「日本が独立国としての運命を歩むことを許さない。日本をアメリカの衛生国として機能させる」と記述されている。つまり「形式的には日本に独立を回復させた後も、自主防衛能力を剥奪された属領にしておく」ことが、米政府の真意であった。
日本は1952年(昭和27年)に「独立」を回復したが、当時、ダレス国務長官は「対日講和条約は、アメリカの日本占領が継続することを意味する」とイギリス政府高官に説明している。米政府は日本を独立国として扱うつもりはなかったし、日本政府が真の独立を回復しようとする動きを許容するつもりも無かったのである。』
(★)Michael Sherry, “Preparing for the Next War”, Yale University Press
1951年9月8日、サンフランシスコ対日講和条約が調印され、日本は独立国となった。そして10月18日、吉田茂首相は閣僚等をつれて靖国神社に参拝している(「映画「靖国」に物申す」'08.8.22の第3節)。しかし吉田は、後に言われだした「吉田ドクトリン」の「日本の復興を優先して、経済重視、国防は二の次と言う経済中心の商人国家の道」を歩ませてしまった。必ずしも吉田の本意では無かったかもしれないが、この吉田ドクトリンと呼ばれた奇形の国家観に従って、アメリカに自主防衛能力を剥奪された状態を当然のこととして経済成長だけを優先させる国家観を信奉する政治家ばかりが、日本の首相になってしまった。今からだから言えるのかもしれないが、経済と国防は半々、もしくは少しでも国防重視の国づくりを進めるべきであったし、現在も進めるべきであると思う。
「米中朝露・四核武装国に包囲され、中国の軍事予算は4年ごとに倍増しているにも関わらず、自主防衛能力を剥奪された状態を不思議とも思わずカネ儲けだけを国家の大事と考えている。」「日本は自主防衛しなくてよい。アメリカの保護に依存していれば良い。」と言う安易な国家観が定着している、この状態をもたらしたものは元はといえば「吉田ドクトリン」なのである。吉田は日本が独立した時に、靖国神社に参拝しすばやく憲法も改正すべきであった。それができた筈でありその意志もあったと思うのであるが、それをしなかった事で吉田は日本に最大の禍根を残したのである。その意味で彼は最悪の謀反人といわれても、致し方ない。
(櫻井よしこ氏「週刊新潮」'08.10.2日号によれば、次の通り。)
であれば、麻生氏は、経済再建、社会保障などとともに、少なくとも、集団的自衛権の行使を可能にする道を切り拓き、日本国の安全保障体制をまともな民主主義国の体制に近づけることを使命として打ち出すのが良い。
090225(25)
(2)新たなパラダイム・シフトを、「日本は生き残れるか」
しからば日本再生の「パラダイム・シフト」は何か。
現在の国際構造は、米ソ二極構造からソ連崩壊を経てアメリカ一極構造となり、今は多極構造へと変化している、と言う。即ち21世紀の国際政治は、米欧露中印による五極構造に移行しつつあると言う。この五極はいずれも核を持っている。これに日本を加えて六極構造とするためには、日本が自主的な核抑止力を構築して自主防衛すれば、日本はサバイバル出来て、国際政治は六極構造となる。
しかし日本が今後も米政府からの圧力に屈服し続けて自主防衛能力を持たないならば、日本は2020年代に中国の勢力圏に呑み込まれてしまう可能性が強い、と述べられている。その場合には、世界は五極構造であり、世界地図から日本国と言う独立国は消滅して大和族自治区の文字が載ることとなる。日本がサバイバルできるか否かは、日本人の知性と決断に掛かっている、と言っている。
最高学府で学んでいても「日本は核武装すべきだという論理を主張して、近隣諸国と付き合うことが可能だと考えてるとしたら、あまりに世間知らずだ。」などと戯言(たわごと)を唱える馬鹿がいるのも確かだか、こんな戯言に耳を傾けていたら日本は早々に滅ぼされてしまう。
そして伊藤 貫氏は次のように言っている。
この「日本が自主防衛すべきか否か」と言う問題は、日本人が国際政治学の主流派であるリアリスト学派のパラダイムを受け入れるか否か、と言う点に懸かっている。
リアリスト学派のパラダイムと言うことで、政治学の学説を言っているのではない。国際政治の中での一般的なあり方を言っているのであり、国際政治での考え方を言っているのである。即ち国際政治の中で、国家が生存してゆけるかどうか、と言うことであり、生存してゆくためにはどんな考え方をしなければならないか、と言うことなのである。
国家として生き延びてゆくために、「自分の国をどのようにして守ってゆくか」と言う大問題を検討することが、国際政治学なのであると小生は理解するのである。
日本の生存を確保するために、「日本は自主防衛をする、自主的に核抑止力を持つ」と考えてそれを実行することが大切なのである。
現在のチベットとウイグルを見ていただきたい。19~20世紀のポーランド然り、ポーランドは1918年に独立したが第2次世界大戦ではドイツとソ連に侵略されて国土が分割されてしまった。戦後の1952年に国家主権を回復したが、冷戦時代にはソ連に蹂躙された歴史をもつ。ソ連の崩壊を受け、1989年に民主化を果たし共和国となる。自主防衛力を持たない国ほど悲惨な目にあう。既にチベットやウイグルと言う国は、中国に滅ぼされてしまっている。それらの国では漢民族は好き勝手なことをやっていると言う。国が滅びると言うことは、まことに惨めなことなのである。
日本が生き延びるために、このこと、即ち、「日本が自主防衛をする」、「そのために核を持つ」、「そして同盟関係を多角化する」と言う政策が必要だ、と言う考え方(パラダイム)が必要なのである。このようにきちんとした外交パラダイムを構築しないことには、国際政治の権力闘争(パワー・ストラグル)に負けてしまう。覇権主義国(戦勝国)から無力化パラダイムを何時までも押し付けられていれば、ポーランドやチベット、ウイグルと同じ運命をたどることとなってしまう。
「日本はミニマム・ディフェンス(必要最小限の自主的核抑止力)をもつべきだ。日米同盟を維持しつつ米国に対する依存度を低減し、同盟関係を多角化すべきだ」と言うパラダイムへシフトしなければならない、と言っている。将にその通りである。
以下日本の自主核と同盟の多角化が如何に必要か、の理由を述べる。
(続く)