続・次世代エコカー・本命は?(20)

これは中国共産党が、日本を中国内戦に引っ張んだ「第2次上海事変」にまつわる話を念頭に、言及したものであるが、ことのついでに、小生のブログ「第2次上海事変1~2(2012.5.28~29)から概要を引用しておこう。

 

1937(S12)89夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。この事件を契機に、812未明に中国(国民党)正規軍が上海共同租界の日本人区域を包囲し更に上海各地区に増派してきた。このため日本領事は国際委員会を再招集して中国軍の撤退を要求したが、中国側は聞き入れなかった。日本側は自重を重ねていたが、中国側の好戦的な態度を受けて同日8/12夕刻550分に初めて東京の軍令部へ陸軍の派兵を要請する電報を打った。しかし動員には時間が掛かるため、戦闘を拡大しない方針を堅持した。

 

しかしながら813日午前10時半頃には、中国軍は日本軍陣地に機銃掃射を開始した。日本は戦闘が上海の国際区域に拡大しないように防衛的戦術に限定し、中国軍が飛来し艦船に爆弾を投下しても対空砲火は撃たなかった。

 

しかし813日午後9時頃からは、国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し、攻撃を開始し戦闘状態に突入した。蒋介石中国軍31千名日本人区域を包囲しているのに対し、日本軍は上海陸戦隊の2,200を中心に、各地区からの寄せ集めの海軍特別陸戦隊4,000あまりであった。このため日本海軍は劣勢を補うために渡洋爆撃を発令し、8/14,15,16と台湾や九州から合計延べ74機の96陸攻を飛ばし中国各地の飛行場を攻撃したが、9機が未帰還、3機が不時着・大破、65名の搭乗員が犠牲となった。それなりの爆撃の効果は挙げたが予想以上の損害を蒙っている。

 

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これを受け、日本側もいつまでも「不拡大方針」を続けることは出来ないと判断し、815日未明に「支那軍よう懲、南京政府の反省を促す(膺懲、こらしめる)との声明を発表し、3師団11師団に動員命令が下り上海派遣軍が編成され、81819と上海に到着しようやく6,300ほどの戦力となった。しかし蒋介石軍は更に3個師団が追加され7万人あまりの戦力となっていた。

 

・・・・・これは蒋介石軍の「南京上海防衛隊司令」であった共産党員の「張治中」が惹き起こしたものであった。彼は攻撃を緩めなかった。蒋介石軍を北伐から遠ざけて、日本軍と対峙させたかったからである。・・・・・

 

819以降も中国軍の攻撃は激しさを増し止むことを知らなかったが、我が海軍特別陸戦隊は10倍以上の敵を相手に、大損害を出しながらも日本租界を死守した。それと言うのもこのわずか3週間前の7/29には、北京郊外の通州で日本居留民地区が、蒋介石軍と結託した中国暴民が襲われ略奪・暴行・陵辱・虐殺されていたからである。邦人230名が虐殺された「通州事件」である。

 

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ドイツ軍事顧問団の指揮の下強固な陣地を構築し、更にはチェコ製機関銃やドイツ製の火器を装備した蒋介石軍は、頑強に攻撃してきたため日本軍は思うように蒋介石軍を撃破できなかった。

 

109には、3個師団10として杭州湾から上陸させることを決め、第10軍は115に上陸に成功している。上海の南60km程の地点である。

 

1010上海派遣軍はいよいよドイツの作ったゼークトラインの攻撃を開始する。そして2日間の激戦の末、各所でゼークトラインを突破する。

 

ハンス・フォン・ゼークトはドイツ陸軍上級大将にまで上り詰めた人物で、第1次大戦敗戦後のドイツ軍備縮小の条約をかいくぐり主にロシアと協定を結びロシア国内でドイツの軍需工場を稼動させた人物である。退役後は、1933年から19353年間にわたり蒋介石軍事顧問を務め、上海周辺に「ゼークトライン」と称する防御陣地を構築している。ゼークトの帰国後は、共に軍事顧問を務めていたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将がドイツ軍事顧問団団長となり、中国軍軍需産業の育成に従事する。19372上海事変作戦計画を作成し実行したのは、この人物である。なぜ蒋介石がこんなことを始めたかは別途記述するが、実質的には国民党軍に潜んでいた共産党によって引き起こされたものであった。

 

当時の中華民国とドイツは1910年代から軍事的・経済的な協力関係を強めていた。ドイツは中国からレアメタルの「タングステン」を購入し、その見返りに中国軍の近代化と産業の興隆に投資していた。これを「中独合作」と言う。1930年代に入ると「中独合作」は更に進展し、世界恐慌のあおりで中国への資金提供は限りなく細っていたが、中独協定1934~1936年)により中国の鉄道などの建設か大いに進んだ。これらの鉄道は日中戦争でも蒋介石に大いに活用された。このような流れの中で1935年より中国軍事顧問となったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン日本だけを「敵国」と看做して、他国とは親善政策を採ることを蒋介石に進言している。

 

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このように第1次世界大戦でのアジアではドイツは日本に攻められていたのだが、ファルケンハウゼンは多分にこんなことを根に持っていたのであろうか。どいつもこいつもドイツ人は、第2次世界大戦では共に敗戦国となった仲ではあるが、あまり親密に付き合える相手ではない、と思っていたほうが良い。事実この時代日本とドイツとは三国同盟の仲(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940日独伊三国同盟)ではあっても、その裏では依然としてこのように中国を支援していたのであった。

 

 

・・・・・ゼークトラインを突破された中国軍はこの後南京城に逃げ込み、更に南京から逃げ出している。その時に南京にいた欧米新聞記者達をたらし込み南京(虐殺)事件を捏造させたのである。・・・・・

 

 

 

ことほど左様にVW排ガス不正問題も、我々善良な日本人にとっては驚天動地の事件であった。

 

なぜそんなことをするのか、と言ったことでも平気でするようなことでもわかるように、ドイツ人は何をしでかすか分かったものではない。だからトヨタも、それなりに注意するに越したことはない。そのうちに上げ足を取られることのないように、今から距離を取っておくことだ。ユダヤ人虐待・虐殺も、ナチスドイツ・ヒットラーの特殊な事件だったと思われがちだが、必ずしもナチス特有な事件ではなくて、ドイツ人にはそんな気性があるのかもしれない、と構えていた方がよいのではないのかな。

 

トヨタはと言うよりも豊田章男社長は、BMWをそんなに持ち上げない方がよい、と感ずるのだが。

 

さてトヨタBMWとの関係記事をもう一つ。

(続く)