巨人たちの懐で(9)――学んだトヨタ、傲慢なGM
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/8/22
トヨタとGMの合弁工場が立ち上がった=AP
トヨタ自動車の「中興の祖」と呼ばれた豊田英二氏は2013年9月17日、他界した。享年100歳。大往生だった。
GMとの提携以降、英二さんとは日本に出張するたび、しょっちゅう、お話しする間柄になりました。
昼食の時間にお会いすることが多かったのですが、困ったことがありました。英二さんの話を一言も聞き逃すまいとすれば、料理に箸をつける余裕などなかったのです。だんだん賢くなって、面会前にサンドイッチとミルクで腹ごしらえしておく知恵がつきました。
面会後も大事でした。部屋を出るとすぐ、英二さんが何を話していたか、を手帳に必ずメモしておいたのです。僕だけの備忘録をつくるわけです。
トヨタを率いる英二さんがどんなことに興味を持っているのだろうか――。自分の頭を整理しようとしただけではありません。
英二さんは僕との話の内容を後になっても絶対に忘れることはない、と考えていました。もし、情報が間違っていれば、次に会うときに修正しないと、信用を失ってしまいます。誤りが分かったときは「私の勘違いでした。実は……」と正直に打ち明けました。
ところが、英二さんは懐が深い。「わははは」と笑って済ませていました。今は、ご冥福をお祈りすることしかできません。
1984年。米国でトヨタとGMの合弁生産事業が立ち上がる。仕事だけでなく、プライベートも忙しかった。
そのころ、ウォール街で知られた自動車アナリスト、マリアン・ケラーさんとお付き合いして、再婚したのです。
アナリストとして、マリアンの名前が有名になったきっかけは、日本車の強さと脅威をいち早く徹底分析したリポートでした。
彼女と結婚に至ったきっかけの一つは、GM最高経営責任者(CEO)のロジャー・スミスさんからの電話だったかもしれません。ある日、彼が急に頼みごとをしてきたのです。
「知り合いの女性アナリストが『日本車の工場を見学したい』と話しているから、何とかしてくれ」
正直、僕はそれまで、マリアンに対して「偉そうだ」という印象でしたが、実際に会って話してみると、違う。縁が深まりました。
マリアンと知り合えて、日本車の台頭とロジャーには感謝、感謝です。
しかし、当時のGMの姿勢は残念でなりません。結局、当時のトヨタとの提携を通じて、トヨタ流の経営を十分に学ばなかった。
GMとトヨタの提携は、本来なら、トヨタよりGMが生かすべきチャンスだったのです。GM社内では「日本車なんてたいしたことない」という意識が抜けませんでした。
GMは2009年、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請。政府管理下で再建しましたが、あのときの傲慢さは謙虚さに変わっているのか。興味は今も残ります。
[2013/10/28/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000020082014
横道にそれ序に、このNUMMI事業についてトヨタはどのように表現しているのか、トヨタの75年史から抜粋してみよう。結局NUMMIでは1984.12月にシボレー・ノバの1号車をLine Off させたが、2010年4月1日に閉鎖している。当初は3月31日の予定が閉鎖を1日伸ばして、退職者支援のため約220億円も余分に拠出している。しかしこのカリフォルニアでのNUMMIの経験は、次の1986年1月のトヨタケンタッキー工場の設立に大いに役立ったものであった。このTMMK(Toyota Motor Manufacturing, Kentucky, Inc.)は2年後の1988年5月に生産を開始している。生産車種はカムリであったが、現在はカムリのほかにアバロン、ソラーラおよびそれらのエンジンを生産している。
序に言うと、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外トーランスの米国トヨタ本社も、テキサス州ダラス北郊のプレイノに新しく建設される本社キャンパスに移すことになっている(2014年4月発表)。
トヨタは韓国人が多く住むカリフォルニアでの、あのトヨタバッシングにほとほと愛想をつかしていたのであるから、テキサスへの本社移転は当然の帰結てあろう。
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NUMMIの設立https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2.html
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NUMMIの立ち上げhttps://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2_a.html
NUMMIの設立
1981(昭和56)年7月にフォード・モーター社との合弁交渉が決裂して間もなく、今度はゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった。これに対してトヨタ自販の加藤誠之会長は、同年12月にデトロイトにロジャー・スミス会長を訪ね、トヨタ自工の豊田英二社長との会談を提案した。GM社側の動きは速く、1982年1月には担当役員をトヨタ自工本社に派遣してきた。
さらに、同年3月にはニューヨークで豊田社長とスミス会長のトップ会談が行われた。スミス会長はその場で、①折半出資で合弁会社を設立し、トヨタが経営する、②西海岸のGM社の工場を活用し、1984年秋から新型カローラをベースにしたGM車を年20万~40万台生産する、というきわめて具体的な案を提示した。これ以降、両社の実務者レベルによる合弁交渉が本格的に始まった。
当時、小型車の自社開発でつまずいていたGM社は、提携先のいすゞ自動車と鈴木自動車工業(現・スズキ)から小型車の供給を受けることにしていた。とはいえ、量的には不十分であり、トヨタとの共同生産により量を確保するとともに小型車の生産ノウハウを吸収するというねらいがあった。
日米間の経済摩擦は、1981年度には日本製乗用車の対米輸出自主規制という事態にまで及んでいたが、日本車への批判は鎮静化していなかった。それどころか、米国議会ではローカルコンテント(現地調達率)法制定の動きも高まっていた。そうした情勢下でのGM社との合弁生産は、日米間の新しい産業協力のモデルとして米国の雇用や部品産業の活性化にも貢献し、両国関係に好影響を与えるものと期待された。
トヨタにとっても、世界最大の自動車市場で従来にない規模で現地生産を行う意義は大きかった。また、北米での生産拡大が不可避となるなか、合弁による比較的少ない投資で北米へ進出し、現地生産を学べるという利点もある。GM社との合弁生産は、トヨタの課題や日米間の通商問題に対処するうえで、最善の策といえた。
しかし、社内には慎重論や懸念の声もあった。生産部門では生産ノウハウを合弁工場で公開することへの不安、北米販売部門では主力モデルを競争相手に供給することへの懸念などである。加えて、全米自動車労働組合(UAW)との協調という大きな問題もあった。それでも両社の合弁生産に関する交渉は進展し、1983年2月にはGM社が閉鎖したばかりのカリフォルニア州フリモント工場を活用するなどの基本合意が成立した。このとき交わされた覚書の主な内容1は、①新会社への出資比率は50対50とする、②1985モデルイヤーのできるだけ早い時期に生産を開始し、年産約20万台を目標とする、③合弁の期間は生産開始後12年以内とする、などであった。
1983年12月には米連邦取引委員会(FTC)の仮認可が下り、懸案の米独占禁止法をクリアした。そして、1984年2月にトヨタとGM社の折半出資により、資本金2億ドルのニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)を設立し、社長にはトヨタの豊田達郎常務が就任した。
1984年4月、トヨタとGM社は、NUMMIの設立に関して、名古屋市で記者会見2を行った。その席上、豊田英二会長は、「競争と協調の精神こそが世界経済の発展を支える基本」であると自らの信念を語り、合弁プロジェクトを「日米産業協力のモデル」として成功に導くとの決意を表明した。
(続く)