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続・次世代エコカー・本命は?(39)

スズキの大誤算、「VWとの提携」を求めた理由

2015/12/17

ナカニシ自動車産業リサーチ 中西孝樹 氏

 国内軽自動車トップのスズキは6年前、「次の30年の道筋」をつくるための一手として、独フォルクスワーゲンVW)との包括提携に踏み切った。だが、「イコールパートナー」を掲げるスズキの思いに反して、VWの狙いはスズキの支配だった――。提携後すぐに生じた不信、対立、そして提携解消をめぐる係争の裏側に迫る。

そして始まった苦悩と戦いの日々

鈴木修会長 (撮影:佐々木孝憲)

 

 2009129は、鈴木修にとって一生忘れられぬ苦い想い出の日となった。ドイツのVWフォルクスワーゲン)との、資本と事業を含む電撃的な包括提携関係をスズキが発表したのである。

VWはスズキへ19.9%(2200億円)出資し筆頭株主となる。環境車、新興国で相互に補完し、トヨタ自動車GMゼネラルモーターズ)を超える世界首位連合を形成へ」

 新聞はこの電撃的、まさに電光石火のニュースを大々的に報じた。

 米国のサブプライム・ローンが焦げつき、世界中の金融危機に連鎖したのは20089のこと。世界の新車需要の30%がまたたく間に蒸発し、業績の急落と資金調達難を受けて、多くの自動車メーカーが未曽有の経営危機に陥った。

 いわゆる「リーマンショック」の直撃を受けたこの2009年は、100年に一度といわれる激動の年であった。世界的覇者に君臨し続けた創業100年の米国名門企業GMの破綻劇2009.6に始まり、トヨタ自動車が歴史的な巨額赤字決算2009.3を発表して創業家が経営に復帰2009.6。そして、スズキ・VWのこの電撃提携2009.12で締めくくられることとなった。

 都内ホテルで行われた発表会見。壇上でおびただしいカメラのフラッシュを浴びるのは、国内では軽自動車、海外ではインドの王者の名を馳せる、浜松の伝統ある企業、スズキ株式会社で当時会長兼社長を務めていた鈴木修であった。

 がっちりと握手を交わすのは、破竹の勢いで次なる世界のナンバー1に向かうドイツVWを支配する、当時監査役会会長のフェルディナンド・ピエヒ博士、当時取締役会会長のマルティン・ヴィンターコルン博士3人だ。満面の笑みで、3人は手を握り合ったのである。

 心のなかで修はつぶやいた。「いろんなことがあった。でも、これで次の30年のスズキの道筋が見えた。小野君があんなことになってしまって痛恨の極みだったが、ようやく、一幕下ろせるな」

 さまざまな苦難に直面し、行き詰まったかに見えたスズキであったが、再び軌道修正を成し遂げ、新たな繁栄に向けて会社を船出させる喜びに、修は浸っていた。

スズキの成功要因は、とうの昔に一巡していた

 スズキといえば、小さなクルマ、特に、国内の軽自動車のトップメーカーの名を馳せてきた企業である。世界第6位の自動車市場であるインドで40%以上の市場シェアを有し、新興国で活躍する代表的な日本企業として知られてきた。

 スズキ株式会社に修が入社したのは1958。かれこれ半世紀以上も前のことになる。1978年に48歳で4代目社長に就いてから40年近くトップに君臨し、浜松の町工場を世界的な企業に育て上げ、名経営者としての誉望をほしいままにしてきたカリスマだ。

 スズキがなぜVWとの電撃的な包括提携に向かわなければならなかったのか。すこし歴史を振り返らなければ、この本当の意味を知ることはできないだろう。

 2000年代に入ってからのスズキは、試練と困難の連続であった。カリスマ経営者との世間の評価とは裏腹に、実際は修は苦悩のなかでもがき、苦しみ抜いていたのである。それは、スズキの成功要因である3つの強みのすべてが行き詰まっていたからだった。その3つとは、「ワンマン経営モデル」「低コスト」「先回り戦略」である。

「ニッチで生きていけた、古き良き時代であった」

 修は、過去の成功要因をこう振り返る。「低コストのスズキ」と冠されるようになったのはこの時代の話である。使い古した軽自動車ベースのクルマを新興国に持っていけば、経済状況に恵まれていなかった新興国の消費者にも手が届く、低価格だが魅力的な車となる。低コストを武器に、大手メーカーが見向きもしない新興国先回りをして儲けを追求する。弱小メーカーのスズキが、過小な資本で生き残るにはこれしかなかった。

 しかし、経済が豊かになれば、国内も新興国での消費者も、もっと高性能なクルマを欲していく。大手メーカーには、高品質なクルマを廉価でつくる資金力も技術力もある。スズキの優位が打ち砕かれるのは時間の問題である。「低コスト」「先回り戦略」は封じ込まれつつあったのだ。

 1995トヨタ自動車8代目社長に大抜擢された奥田碩は、転換点に立つスズキを見逃さなかった。創業家による長い経営支配で、当時のトヨタにはすっかり停滞感が漂っていた。そのトヨタグローバルカンパニーへと脱皮させた、奥田改革は有名な話だ。

 奥田の改革の基本戦略は、トヨタの国内生産基盤を盤石なものとしたうえで、果敢にグローバル市場に打って出ることだ。奥田の標的となったのがスズキだった。スズキの軽自動車の牙城を崩すことが、彼の戦略だったのである。

 成長を支える新興国においても同じであった。20年前なら大手メーカーは見向きもしなかったが、1995年ごろを境に、VWは中国へトヨタ東南アジア怒ど涛とうの攻勢をかけた。このあおりを受け、スズキが手を組んでいたインドの国民車製造会社(当時のマルチ・ウドヨグ、現マルチ・スズキ・インディア)は、2001年に67億円の最終赤字に転落した。

生き残りをかけた3枚の切り札

下手すりゃスズキがつぶれることだってある

 2000年を過ぎた頃にはこんな弱音を口にするほど、修の危機意識はピークに達していた。そんなスズキの経営に参画してきたのが、娘婿にあたる小野浩孝である。小野は2001年に経済産業省を退官し、危機に直面したスズキを飛躍させるため、修に合流してきたのである。

 老獪な修の危機意識、小野が持つ若さと行動力。2人ががっちりスクラムを組んだことで、スズキは息を吹き返した。修は、不退転の覚悟をもってGMからの出資比率を20%に引き上げ、グループ入りの決断を下した。

 GMとは1981資本提携して以来、長く良好な友人関係にある。しかし、もしスズキを自力で再生できなければGMに飲み込まれる。それを覚悟したうえでの決断であった。

 戦略家の小野は、スズキの近代化と生き残り策を盛り込んだ構造改革レポートを書き上げた。のちに小野戦略と呼ばれ、スズキの近代化と飛躍をもたらした「新戦略」となったものである。

 「小野浩孝」「GM」「新戦略」。生き残りをかけた3枚の切り札を修はそろえた。スズキがこの危機を乗り越えて、大きく飛躍できると確信した。

 さらに修は、小野こそが次のスズキの社長にふさわしい人物だと確信した。未来のスズキを手にした喜びと、会社での自分の役目が最終章に近づいてきた寂しさが入り交じった複雑な心境で、修は一息ついた。このとき、修の年齢は経営者としてはかなりの高齢となる70歳後半にさしかかっていた。

大誤算

 しかし、修が再三再四、口を酸っぱくして唱え続けた「25年周期の経営危機」は、本当に訪れたのである。

 200712、専務にいた小野浩孝が、52歳で突然、早世した

 「7年後の52歳で社長にできる」

 スズキに入ったばかりの小野を初めて見たとき、修は直感的にこう感じたという。悲劇としか表現できない、悲しいめぐり合わせとなってしまったのである。修は3枚の切り札の最も重要なカードを失った

 不幸は続く。戦略パートナーと心に決めたGMが深刻な経営不振に陥り、200812月にスズキとの資本関係を清算、翌年に経営破綻を迎えてしまう。修は2枚目の切り札も失った。

 さらに、スズキの近代化と先進国事業への転換を目指した「新戦略」も破綻寸前だった。サブプライム問題に端を発したリーマンショックは、先進国経済に見通しの立たない混乱を引き起こした。小野戦略が欧州事業で高い成果を収め、第2ステージの米国侵攻に踏み込んだところを突かれた格好だ。米国事業のシナリオは完全に狂ってしまった

 

修は20086月に、小野を社長に指名する腹を決めていたという。当時の修の落胆ぶりは、傍で見ているのさえ辛いものであった。その修の手には、半分にちぎれた「新戦略」が残っていただけだ。

 しかし、小野が残した大きな遺産であるこの「新戦略」が、修の闘争心を蘇らせた。

「こんちくしょうめ、負けてたまるか。必ず、立て直して見せる」

 「新戦略」は、スズキを新たなステージに引き上げ、低コストや先回りで成功するのではなく、先進国で堂々と通用する製品と技術を持った会社に成長させた。同時に、スズキが強みを持つインドなどの新興国経済は、リーマンショックを契機に大きく飛躍した。新興国が、新しいスズキの製品を求める時代に変わっていたのである。

3つの重要問題の解決

 小野の死、そしてGMの破綻――大きすぎるふたつの悲しみだったが、修はいつまでも打ちひしがれていることはなかった。78歳の老骨にムチを打ち、会長と社長を兼任する決断を下す。「生涯現役」を心に決め、混迷したスズキの未来を見定めるため、自分の手で危機を乗り切り、再建を果たす覚悟を決めたのである。

 修の前には3つの重要問題が立ちはだかっていた。まずは、小野亡きあとの経営体制として、集団指導による組織的経営を確立すること。先進国事業のつまずきを再構築したうえで、成長戦略を定めること。最後に、GMに代わるよきパートナーとめぐり合うことだ。

「技術と商品は小野君がすでに仕込んでいる。成長戦略の軌道修正を自分の手で果たし、集団指導体制を築き上げれば、荒波のなかのスズキをもう一度安定化できるはずだ。3枚目の最後のカードとして、よきパートナーと出会えるなら、30年先のスズキも安泰だ。そうすれば、安心して次世代にバトンを渡せる」

 このころ、1994年にデンソーからスズキに入社した、修の長男である鈴木俊宏が社内で育ってきていた。当時、俊宏はまだ47 歳。社長になるにはまだ若かった。幹部社員の意識改革を進め、育成するにはそれなりの時間が必要だ。集団指導体制を確立する数年後には、俊宏は有力な後継候補になれるはずだ。修には勝算があった。

 そんなところに接近してきたのが、VWだった。

中西孝樹 著『オサムイズム "小さな巨人"スズキの経営』(日本経済新聞出版社2015年)「第1章 岐路に立つスズキ」から

中西 孝樹(なかにし たかき)

(株)ナカニシ自動車産業リサーチ代表。1986オレゴン大学卒。山一證券メリルリンチ日本証券などを経て、2006年からJPモルガン証券東京支店株式調査部長、2009年からアライアンス・バーンスタインのグロース株式調査部長に就任。2011年にアジアパシフィックの自動車調査統括責任者としてメリルリンチ日本証券に復帰。2013年に独立し、ナカニシ自動車産業リサーチを設立。1994年以来、一貫して自動車業界の調査を担当し、日経金融新聞・日経ヴェリタス人気アナリストランキング自動車・自動車部品部門、米国Institutional Investor誌自動車部門ともに2004年から2009年まで6年連続1位と不動の地位を保った。2011年にセルサイド(証券会社)復帰後、日経ヴェリタス人気アナリストランキング、Institutional Investor誌ともに自動車部門2013年に第1位。著書に『トヨタVW 2020年の覇者をめざす最強企業』、日経文庫業界研究シリーズ『自動車』などがある。

 

http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94712618.html

(続く)