だから何故そうなったか、と言う事が問われることになる。結局は会社の経営がうまくできていなかったと言う事になってしまうが、三菱自動車工業株式会社は、元をたどれば戦前からの日本の重工業 の覇者である戦艦武蔵やゼロ戦を作っていた三菱重工業株式会社に行き着く。
以下Wikipediaなどを参考にしながら、三菱自動車の生い立ちを追ってみたい。
その三菱重工は、戦後の1950年(S25年)3つの会社に分割され、米国の乗用車やウィルスジープのCKD生産を行っていた。1960年には自社開発の三菱500、1962年には軽自動車のミニカを発売している。その3社が合併されて三菱重工業株式会社として元の姿に戻ったのは1964年(S39年)のことであった。1969年にはコルトギャランを発売し、翌年の1970年2月には三菱重工はクライスラーと合弁で自動車事業を進めることになる。
そして1970年6月1日に、三菱重工の自動車部門は、三菱自動車工業株式会社として独立したのである。その後1994年にはFTOが日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したり、1998年にはランサーエボリューションがWRCを完全制覇したりと絶頂期を迎えている。
しかしもともと軍需産業が主体であった企業であり、その体質が抜け切れていなかったためか、こと自動車、特に乗用車などの耐久消費財では安全などを筆頭に品質保証が最重要となるものであるが、クレームが多発してしまった。この時代はトヨタ、日産、ホンダに次ぐ乗用車第4位の地位に上り詰めた三菱自動車であったが、2000年(H12年)7月にリコールにつながる大量のクレーム隠しが、内部告発で発覚する。乗用車、トラックなど合わせて約69万台、1977年から23年間にわたりリコール情報を社内隠蔽していたのである。
結局は会社の拡大に伴って、経営の品質が、それに伴って向上していかなかった、と言うよりも向上させ得なかったと言う事ではないのかな。その原因は何かと更に突っ込まれれば、人に起因すると言わざるを得ない。結局は経営者・管理層が会社をうまくマネジメントできなかった、と言う事に尽きる。
このため副社長をはじめ関係者が道路運送車両法違反(虚偽報告)容疑で書類送検されている。
2000年10月18日にダイムラー・クライスラー(1998年ダイムラーがクライスラーを事実上吸収合併)と資本・業務提携を結び、ダイムラー・ベンツからCOOそしてCEOを迎えて、経営の立て直しを図る。
しかし2002年1月10日には横浜市で三菱の大型車のタイヤホイールの脱落事故が発生し、母親と幼児二人にあたり、母親が死亡すると言う事故が発生する。ハブの強度不足によるものであった。
更に2002年10月19日には山陽自動車道熊毛インターチェンジで三菱製9トン冷蔵車が暴走し構造物に激突し大破、運転手が死亡する事故が発生する。これも結局はプロペラシャフトの欠陥が原因で破断し、ブレーキパイプを破壊して暴走を引き起こしたことが判明する。
このいずれもリコールに該当する欠陥であったことが判り、2004年に三菱自動車の責任とされ、その後当時の副社長らが有罪判決を受けている。結局は2000年のリコール隠しの反省と対策が身についていなかったことになる。
2003年、トラック・バス部門を三菱ふそうトラック・バス株式会社として分離独立。ダイムラー・クライスラー傘下(43%保有)に入る。2005年にはクレーム問題の賠償として20%の株式譲渡、ダイムラー・クライスラー社が株式の85%保有となる。
このようなことが重なり、ダイムラー・クライスラーも嫌気がさして三菱の経営から手を引くことになる。
2004年4月、ダイムラー・クライスラーは三菱への経営追加支援を中止し、CEOも任期を待たずに去ることになった。2005年11月にはダイムラー・クライスラーは三菱自の全株式を売却し、資本関係を解消している。
その前2005年1月には日産と包括的な業務提携を結び、ekワゴンをオッティ(日産名)として供給することが発表されている。
そして2005年12月には三菱重工業の持ち分法連結会社となり、三菱グルーブ傘下で再建を目指すことになる。
2009年6月5日には、国内で初めて、量産型電気自動車のi-MiEVを発表している。このi-MiEVは、2010年にはプジョー・シトロエンにOEM供給されている。
2011年6月1日、日産と三菱が折半で出資して、軽自動車製造の合弁会社・株式会社NMKVを設立している。日産が企画・デザイン、部品調達、三菱が開発・製造を担当する。後に燃費の水増し不正のあったekやDAYSなどの軽乗用車の開発・生産が決まったものであった。
NMKVは、Nissan Mitsubishi Kei Vehicle だと言う。
2012年12月25日、軽自動車用E/G(3G83型)のオイル漏れ不具合に対するリコール対策の遅れや不備により、道路運送車両法に基づく強制調査を受ける。
2013年には、NMKVとルノーとの協業でEVも含むグローバルエントリーカーの開発・生産に合意。三菱自動車としてルノー・日産との協業にも合意している。
そんなわけで、2016年5月12日には、日産自動車が三菱自動車の発行済み株式34%を取得して傘下に収めることか発表された。だから、2016月4月20日の三菱製軽自動車の燃費不正発表も、なんとなく胡散臭い感じがするものである。そのため日産は非常にリーズナブルな価格で三菱を傘下に収めることが出来た訳である。
このように三菱自動車の会社概況を紐解くと、2000年のリコール隠し問題からおおむね4年ごとに大きな問題を引き起こしているように見える。太字の年号の年がそれにあたる。
2000年(H12年)7月 (シドニー五輪)大量のクレーム隠しが内部告発で発覚
2004年 (アテネ五輪)大トラや冷蔵車で死亡事故発生、有罪判決。DC社撤退。
2012年12月25日 (ロンドン五輪)軽自動車用エンジンの油漏れで強制調査
2016月4月20日 (リオデジャネイロ五輪)軽自動車の燃費不正が発覚、三菱自動車は日産傘下に入ることになる。
と言う事で結局三菱自動車は、潰れたことと同じ結果となってしまった、と言う事ではないのかな。
日産・ルノーの思うように使われることになってしまうのであろう。三菱グルーブも、こんな状態の三菱自動車には、ほとほと手を焼いていたことであろう。うまい具合に日産の手練手管に丸められてグループの手を離れてゆくことには、それほど未練はなかったものと思われる。
そして次の4年後の2020年の東京五輪では、果たして三菱自動車の名称は残っているのであろうか。
(続く)