共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(3)

2.大東亜共栄圏大東亜戦争について

 

・西欧列強による東亜の植民地化

 

アヘン戦争1840年11月から始まり1842年8月29日に終結したが、当時のイギリスはインドで取れるアヘンを大量に清国へ密輸出することによって、その貿易赤字を補っていたが、アヘンの弊害に危機感を募らせた清国政府はアヘンの輸入を禁止した。そのためイギリスは東洋艦隊を派遣しアヘンのイギリスからの輸出を認めさせようと戦端を開いた。この戦いは清国の完敗に終わり、多額の賠償金と香港の割譲、多数の港の開港や治外法権を認めさせられたり関税自主権の放棄など全くの不平等条約を結ばされた。これに伴いアメリカ、フランスなどの列強も次々と清国と不平等条約を結ぶこととなる。この事件はいち早く幕末の日本にも伝えられ、幕政改革、明治維新への近代化の大きなきっかけとなってゆく。

 

事ほど左様に東亜(東アジアや東南アジア)の国々は、西欧列強の植民地と化していった。そのため明治の日本国の危機意識は極限までに高まり、清国の改革と朝鮮の独立を第一優先事項として外交、安全保障の施策をとり、アジアで唯一の植民地にならずに近代化を果たすことが出来た。しかし日本の位置するアジアの他の諸国はイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの西欧列強の植民地として、思うように搾取されていた。

 

・植民地からの開放(大東亜共栄圏

 

そのため欧米諸国(特に英米)の植民地支配から東亜の諸国を開放し、東アジア、東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようと考えた。これがいわゆる「大東亜共栄圏」構想である。

 

この考えは、1938年(S13年)11月3日、第1次近衛内閣が発表した日本、満州支那3カ国についての「東亜新秩序*」構想に端を発しているが、1940年(S15年)7月に近衛内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話で共栄圏と言う言葉が使われ、一般化した。

 

*日・満・支三国相携(あいたずさ)え、政治・経済・文化等各般に渡り互助連環の関係を樹立するをもって根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以(ゆえん)なり。

 

・対日経済制裁

 

しかし是より前、1937年(S12年)7月7日、国民党軍に潜んでいた共産党員が演習中の日本軍に放った数発の銃声により盧溝橋事件が勃発していた。日本は支那事変を戦っていた。中国の権益確保に関心があったアメリカは、国民党政権に物資を供給する傍ら、日本に対して対日経済制裁を発動し、輸出を制限してきた。そのため日本は航空機燃料や鉄などの基幹物資の確保が出来なくなり、苦境のどん底に落とされてしまった。そして支那事変を早期に終わらせるため、1940年9月、英米からの中国国民党政権への物資補給ルートを絶つために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐し、それに伴いアメリカは更に日本への鉄鋼などの輸出を禁止した。そのため1941年7月に日本は更に資源確保を目的に仏領インドシナ南部に基地を設置するために進駐する。是を契機にアメリカは日本への石油輸出の全面禁止を実施した。このとき日本は石油の8割をアメリカから輸入していたので、その影響は深刻であった。日本は経済制裁の解除を求めてアメリカと交渉を続けていたが、アメリカは日本の足元を見て一顧だに考慮を払わずに、ABCD包囲網*を構築して貿易を制限し、日本を戦争へと追い込んでいった。この間の事情はアメリカ国務長官コーデル・ハルが日本に発した最後通牒ハルノート*」をみれば明らかである。

 

*A:America、B:Britain、C:China中華民国)、D:Dutch(オランダ)

 

ハル・ノート*

 

1941年(S16年)11月26日、日米交渉においてアメリカ側から提示された交渉文書であり、実質的なアメリカ側の日本に対する「最後通牒(宣戦布告)」であった。当時の陸軍長官のスティムソンは、1941年(S16年)11月28日のルーズベルト大統領との会見の時には、「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と発言している。このため日本が先制攻撃をするように仕向ける一環として、ハル・ノートを日本に突きつけたものである。アメリカが先制攻撃をする場合には、前もって議会と国内世論をまとめる必要があり、これにはかなりの困難が伴うものと思われていた。そしてアメリカ上層部は、12月はじめには日本との戦争状態に突入するであろうと予想していたといわれている。

 

Wikipediaによると、

ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官がハルに示したものであり、更にそれは彼の副官である「ハリー・デクスター・ホワイト」が作成したものであった。ホワイトはフランクリン・ルーズベルト政権では財務次官補を務めた経済官僚であった。彼は、ソ連スパイのパブロフやアメロフなどと頻繁に通じてソ連コミンテルンの工作の一部を担っていた。アメリカのソ連の暗号書ベノナ文書の解読を受け、ソ連スパイであることが確定的となった。ソ連は日本がアメリカと戦争を始める事で、大陸から日本を追い出したかったのである。

 

ハル・ノートの内容は概略次の通り。(http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTMによる。)

 

1.満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の前面撤退。

2.大陸に於けるすべての権益の放棄。

3.三国同盟の廃棄。 と言う過酷な内容のものであった。

 

要するに、既に建国10年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清・日露戦役以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出て行けということで、これは戦わずしてアメリカに屈服せよというに等しく、到底日本が受け入れられないことを承知で突きつけたものである。天皇の「戦争せずに交渉せよ」、とのお言葉に真剣に戦争回避の方策を検討していた東条内閣も首相以下政府・軍部首脳は、万事休すと天を仰いだのである。後の東京裁判でインドのパール判事をして「このような過酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと言えども銃を執って立ち上がるであろう。」言わしめるほど傍若無人な過酷なものであった。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)

 

1941年(S16年)12月8日真珠湾攻撃で、今次の戦争の火蓋は切って落とされた。そして1941年(S16年)12月12日、大東亜戦争との呼称が閣議決定され、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争は、アジア諸国に於ける欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(S18年)の大東亜会議で「再確認」されている。

 

このため大東亜共栄圏とは、アジアを欧米列強の植民地支配から開放し独立させて、現在の欧州連合のような政治・経済を中心とした対等な国家連合を実現させて、その中で日本も資源を確保しアジア諸国の発展に寄与し、共存共栄の経済圏を建設しようとしたものと理解できる。

 

このことは、1943年(S18年)11月5、6日に東京で開催された、史上初めての有色人種のみが一堂に会した首脳会議・大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」をみればよく分かる。

 

大東亜共同宣言(概略)

 

よくよく世界各国が各々そのところを得、相より相助けて、万邦共栄の楽を皆にするは世界平和確立の根本要義なり。然るに米英は自国の繁栄の為には他国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては、あくなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望たくましゅうし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。大東亜各国は、相提携して大東亜を完遂し、大東亜を米英の桎梏より開放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基づき大東亜を建設し、以って世界の確立に寄与せんことを期す。

1.共存共栄、2.自主独立、3.伝統尊重・民族繁栄、4.互恵提携・経済発展、
5.人種差別撤廃・文化交流・資源開放 』

 

なお大東亜会議への主席国は、日本、南京政府満州国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドなどの諸国であり、マレー、インドネシア、仏領インドシナは出席できなかった。

 

・大東亜諸国の独立

 

また、日本軍の占領で独立を果たした国々は、フィリピン、ベトナムラオスビルマ、カンボジャ、満州国であり、日本軍の各種の施策により後日独立を果たした国は、インドネシア、インドなどがある。

 

日本軍は占領地域に対しては、日本語による皇民化教育や資源の収奪などが行われたことから、日本もかっての宗主国と同じ侵掠者に過ぎないという見方もあるが、これは間違っている。日本軍が宗主国勢力を排し、現地人からなる軍事力を創設したことが独立につながり、占領下での様々な施策の改善、例えば愚民化教育を廃して学校教育を拡充し、現地語を公用語化し、在来民族の高官登用などが行われたため、旧宗主国に比べ日本はより真っ当な統治者であったと言われている。

 

(以上はWikipediaを参考にしている。)

 

このように「大東亜」の概念は、旧宗主国であった連合国にとっては東南アジアなどへのかかわり方に大きく影響を与えるものと考えて、其の使用を禁止したものと思われる。

 

そして独立を果たした大東亜の諸国にとっては、この大東亜戦争は他の何物にも変えがたい意味を持っていたのであった。 

(続く)