共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(7)

近衛内閣に入り込んだ共産党員は、尾崎秀美の他にもう一人悪玉がいた。それは近衛内閣で法務大臣にまで上り詰めた風見章である。

 

 

尾崎秀美や風見章などの共産主義者を重用した近衛文麿とは、どういう人物であったのであろうか。

 

近衛家とは、いわゆる五摂家近衛家九条家二条家一条家鷹司家)の一つで、更には近衛家一条家鷹司家の3家は、江戸時代に皇族が養子に入って相続している皇別摂家である。Wikipediaによれば、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流の公家の家格の頂点に立つものである。いわゆる摂関家の一つであり、近衛文麿後陽成天皇12世孫にあたると記されている。

 

近衛文麿の母は加賀前田家の出身で、文麿が幼い時に病没している。そして後妻に迎えられた実母の妹に育てられている。このことは成人して知ることになる訳であるが、幾分ひねくれた文麿の性格はこれも影響しているようだ。更には文麿12才の時に、父篤麿も1904年満40歳の若さで病没している。父は貴族院議長を務め、当時右翼的な政治活動家であった。

 

文麿東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学を学ぶために京都帝国大学法科大学に転学している。そして河上肇などに師事して社会主義思想を深く学んでいる。

 

1916年(大正5年)満25才で世襲により貴族院議員となり、革新勢力の中心となってゆく。

 

以下「正論」五月号の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」(林 千勝)を参考にして記載している。

 

近衛内閣は以下の3次に渡っている。

 

1937(S12). 6. 4~1939(S14). 1. 5の第1次近衛内閣、

1940(S15). 7.22~1941(S16). 7.18の第2次近衛内閣

1941(S16). 7.18~1941(S16).10.18の第3次近衛内閣

 

193777盧溝橋事件が勃発したが、近衛は79日にはすぐさま不拡大方針閣議決定している。それを受け現地では停戦協定が締結されている。しかし711日には中国軍の増派の報を受け「北支派兵声明」を大々的に発表している。大々的にとは、総理官邸に主要報道陣、政財界の代表多数を招き、それを発表していることである。事変推進世論形成のためである。

 

更には事変不拡大を言いながら、事変拡大を予算面で手当てし拡大へと導いている。そして第2次上海事変が始まると「今や断固たる措置をとる」との「支那軍膺懲」声明を発している。

 

関東軍参謀の石原莞爾少将たちは和平に奔走したが、近衛たちは一切受け入れなかった。

 

1938(S13).1.16には、「国民政府を相手にせず」との声明を発し、講和の機会まで閉ざしている。

 

これには近衛のブレーン集団「昭和研究会」に所属していた二人のコミュニスト尾崎秀美風見章などの拡大論が大いに寄与していたものである。どちらかと言うと、などと言わなくても、近衛文麿共産主義思想に共鳴していた。それだから共産主義者の尾崎や風見を側用人として近くに置いていたのである、と思われる。

 

風見は早稲田を卒業後朝日新聞などの記者を経て、信濃毎日新聞主筆なり、共産党宣言などを連載している。その後衆議院議員に4回当選している。尾崎秀実とは同志でパリパリのコミュニストであった。

 

1937(S12)の第1次近衛内閣では、風見章はいきなり「書記官長」(現在の官房長官より強力)に抜擢されている。

第2次近衛内閣では風見章は、司法大臣に就任している。そして第2次近衛内閣では日米対立の大本(おおもと)が形づくられてしまっている。

 

そして1938.4.1には国家総動員法が制定されている。戦時体制への移行ではあるが、近衛や風見にしてみれば、これは計画経済即ち社会主義体制への入り口であった。ソ連の制度の模倣である。

 

1940.7.26 大東亜共栄圏構想を発表

1940.9.27 日独伊三国同盟を締結

1940.10.12 大政翼賛会発足・・・戦争準備のためとは言え、一種の社会主義路線であった。

1941.4.13 日ソ不可侵条約締結

1941.7.28 南部仏印進駐・・・これで米英蘭の全面対日禁輸措置となり、戦争への道が出来上がってしまった。尾崎、風見、近衛文麿にとっては、南進論が実現しコミュニスト達の思い通りに筋書きとなったのである。以後の政権運営東条英機に丸投げしている。

 

しかし優柔不断と言われた近衛文麿であったが、以上の様に自身の信条に従って政策遂行していったものであり、共産主義信奉者の近衛の戦争責任は明白であった。戦争責任はすべて軍部にあると責任転嫁していた近衛であったが、A級戦犯として巣鴨拘置所に出頭を命じられた期限の1945.12.16に青酸カリを服毒して自殺している。

 

 

近衛の信条として、この筆者の林千勝氏は次の6点を挙げている。

 

(1) 支那事変の積極的拡大志向・・・近衛の了解の下風みらが強硬論を展開

(2) 日本での革命志向・・・支那事変は国内「革新」、社会主義の土台作りの手段

(3) 独裁体制としての新党づくり・・・大政翼賛会は一種の共産主義であり革命組織として使う

(4) 対ソ戦不拡大の徹底・ソ連称賛・・・南進論へ

(5) 石原莞爾への誹謗中傷・・・石原莞爾は当時の世界情勢を理解し、真っ当な考えであった。

(6) 後継首相に東条英機を推挙

 

 

風見章は近衛を心底信頼し、コミンテルンの「天皇制打倒」と言う革命路線に沿った政権とみて近衛内閣をある意味操ったのである。しかし1945(S20).2.14近衛上奏文は、「敗戦革命を企画する軍部内の共産・親ソ分子の一掃」を求めるものであったが、もし天皇陛下がそれを実行していれば日本は内戦状態に陥っていた可能性があった。しかしこれをせずにポツダム宣言の受諾を受け入れ、終戦となったことはまさに聖断であった。近衛がなぜ裏切ったのかは、明らかになっていないが、近衛の戦争責任東条英機よりも深いものがある。

 

と言うよりも敗戦革命を企画する一派が存在すると(天皇陛下に)告げ口をして、天皇の命令でその阻止を実行させれば、日本は内乱となる。その内乱をおこさせることが、近衛の目的ではなかったかと推察できるのである。内乱に乗じて軍部内の共産分子が天皇陛下を拉致して、日本に革命を起こさせると言ったことを意図したのではないのか、勘ぐることが出来る。

 

それからもし天皇陛下がこの話に載らなかった場合には、近衛は共産主義に反対する人間であると評価されることになる。どちらにしても一石二鳥であった。

 

実に恐るべきは、共産主義(者・党)である。

 

しかし昭和天皇は冷静で沈着であった。共産分子の粛清ではなくて終戦のご聖断を下されたことで風見らが企画した(場合によっては近衛も意図した)敗戦革命の危機・クーデターの危機に陥ることはなかったのである。

 

日本は苦しい戦後を生き延び、豊かな国となることが出来た。天皇陛下をはじめ先人の努力には頭が下がる思いである。感謝!

 

それにしても、恐るべきは共産主義(者・党)である。

 

以下は「正論」2016年六月号の『共産党は暴力革命維持」、政府見解の正当性・戦後の日本で「戦争をした」唯一の政党』(拓殖大学客員教授藤岡信勝)を参照している。

 

 

戦前の日本共産党の名称は、「コミンテルン日本支部日本共産党」と言うのが正式な名称であった。戦前は日本共産党ソ連共産党に統制(金も貰い行動も指示)されていた。コミンテルンCommunist Internationl、ドイツ語Komintern共産党国際部)とは、世界の共産主義者は各国のブルジョアジーに対抗するためには各国同士で連携してゆかなければ、共産革命は出来ないと言った考えから出来た組織である。第三インターナショナルとも言ったが、戦後はコミンフォルムCominform国際共産党情報局、正式にはヨーロッパ共産党・労働者党情報局)と言う組織に代わっている。

 

中華人民共和国中国共産党)は、1949.10.1に北京で建国された共産党国家であるが、その3ヵ月前の1949.7月に中国共産党劉少奇ソ連を訪問し、「ヨーロッパはソ連が、日本を含むアジアは中国が担当して革命運動を広める」と縄張りを決めている。そして1949.11月に北京で開いた「世界労働組合連盟」会議で、日本を含むアジア・太平洋地域には例外なく、中国流の人民解放軍による武装闘争方式広めてゆくと演説している。「劉少奇テーゼ」である。

 

そのころ日本共産党では、野坂参三が「占領下平和革命論」を唱えていたが、1950.1.6コミンフォルムは、この野坂参三の平和革命論を「反マルクス主義的、反社会主義的で日本人民大衆を欺く理論」として大々的に批判した。これを受けて日本共産党徳田球一派と宮本顕治派に分かれたが、地下に潜り中国に密航して完全に中国共産党の指導下に入る。

 

そして1951.10の第5回全国協議会(五全協)で、武装闘争・軍事革命を目指すことになり「中核自衛隊」と言う軍事組織を作った。

(続く)