日本近代化の流れ(2)

話はフランスに飛ぶ。フランス革命1789714日(~1794.7.27に王制封建体制打破を掲げて、不満を募らせていた民衆がバスチューユ牢獄を襲撃したことから始まっている。この騒乱と政治的にも混乱したことを危惧した隣国のオーストリアプロイセンは、必要あらばフランス革命に干渉することを宣言する。1791625日のピルニッツ宣言である。

 

フランス革命政府はこれを重大な脅迫と受け止めて、オーストリアに宣戦布告する。世にいうフランス革命戦争1792.4.20~1802.3.25の勃発である。そしてプロイセンも参戦しフランス領内に進入すると、劣勢だったフランスは各地で義勇兵を組織して反攻に転じ、貴族から下層民までが団結して戦い、プロイセンオーストリア軍に勝利し1792ネーデルランド(今のベルギー、ルクセンブルグ地域など、ちなみに北部地域は17世紀にオランダ共和国となっている。)を占領してしまう。ちなみにこのときマルセイユ義勇兵達が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」は後にフランスの国歌となる。序にマリー・アントワネットがギロチンにかけられたのは179310月であった。

 

そしてイギリスもフランスに対抗したためフランスは、17932月にイギリスとオランダに宣戦布告する。このためオランダ統領ウィレム5世はイギリスに亡命する。オランダがフランスに占領されたため、その影響は日本にも及んでいる。

 

ウィレム5世の意を受け、アジアの制海権を握っているイギリス海軍フリゲート艦フェートン号は、1808年(文化5年)10月4日、オランダ船の拿捕を目的にオランダ国旗を掲げて長崎に入港する。オランダ船と勘違いしたオランダ商館員2名が慣例に従いで迎えにでるが、武装ボートによって拿捕されてしまう。イギリス船はオランダ国旗を降ろしイギリス国旗を掲げ、港内を捜索し薪・水・食糧の提供をを要求する。種々の脅迫を受けた長崎奉行はやむなくイギリス船の要求を受け入れ、食糧や飲料水を供給しオランダ商館も豚牛などを提供したため、オランダ人を釈放し、10月17日港外に出る。太平の眠りを覚まされた長崎奉行や警護担当の鍋島藩家老達は責任を取って切腹となり、以後臨検体制の改革が行われ、外国船の入国手続きが強化されることとなる。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年・文政8年異国船打払い令を発令することとなる。しかし1840年にはアヘン戦争でイギリスが清朝に勝利し、日本の周囲もかなり騒がしくなってきている。

 

1853年7月8日嘉永6年6月3日)にはちなみにアメリカのペリーが、黒塗装の軍艦4隻を率いて浦賀沖に現れている。そして1854331日に強引に幕府に日米和親条約を結ばせている。それに続いてイギリスも18541014日に日英和親条約を結ぶことになる。

 

これは日本がギリスと取り交わしたはじめての条約であるが、これらは幕末の混乱期に欧米列強との締結を余儀なくされた不平等条約のはしりとなるのである

 

日本はこの日英和親条約で長崎と函館をイギリスに開放し、薪水の供給を認め、治外法権最恵国待遇なども認めさせられたが、通商規定は無かった。

 

そのため1858年8月26日日英修好通商条約徳川幕府とイギリス代表エルギン卿との間で調印される。条約港の設定とそこでの治外法権の承認関税自主権の制限外交使節の交換を定め、江戸に在日英国代表部が置かれた。条約港としては函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の5港が定められており、事実上輸入関税免除の状態が続き、条約港での治外法権が設定されており、不平等条約が強化されている。そのため明治政府は、輸出関税自主権の回復と領事裁判権治外法権)の撤廃を目指して外交努力を続けるが、その解決には長い期間を要し、イギリスとの不平等条約の解消は日露戦争1904~1905年)後の事となる

 

尚この年1858年7月29日には日米修好通商条約、同年8月26日には前述の日英、同年10月9日には日仏通商修好条約、同年8月には日露、同年8月17日には日蘭修好通商条約が調印されており、安政の五カ国条約と呼ばれている。

 

この時の幕府の大老職は彦根藩主の井伊直弼であり、これらの条約は井伊直弼の独断で調印されている。それだけ外国からの圧力に対して、朝廷も幕府もなすすべがなくさりとて捨て置くことも出来ずに、井伊直弼が腹をくくったものであった。そのため尊王攘夷思想の火に油を注いだ結果となり、井伊大老はこの混乱を鎮めるために安政の大獄と言われ大弾圧を実施することになる。そのため1860324日・安政7年33大老井伊直弼は水戸浪士らに暗殺されてしまう。桜田門外の変である。

(続く)