これら諸外国からの圧力に危機感を募らせたのが、薩摩藩主の島津久光であった。久光は江戸に赴き、第14代征夷大将軍・徳川家茂(いえもち)の後見役として、徳川慶喜(よしのぶ)を任命させるなど諸改革を幕府に実施させている。世に言う文久の改革である。1862年・文久2年6月7日のことである。
この島津久光の江戸からの帰路、1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村(神奈川県横浜市鶴見の生麦)付近で、薩摩藩の島津久光の行列に突っ込んだイギリス人4人の内、商人のリチャードソンが薩摩藩士に切り殺されると言う事件が起きている。他の3人のイギリス人も手傷を負っている。いわゆる「生麦事件」の発生である。
薩摩との賠償交渉が決裂して、イギリスは7隻の艦隊を錦江湾深くに派遣して、鹿児島城下前之浜(注)と桜島の間に艦隊を派遣して艦砲射撃を実施する。
薩摩側は各砲台を破壊され、更には城下の屋敷、民家、更には工場施設(集成館)などが破壊された。しかしイギリス艦隊の被害も甚大で、旗艦艦長や副長など士官多数が戦死している。そのためイギリス艦隊は、やむなく撤退することとなる。
この結果をWikipediaは次のように記述している。
『当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している[29]。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。』
(注)この前之浜は、現在の喜入前之浜とは異なるので念のため。
これが「薩英戦争(1863.8.15~1863.8.17)」であるが、この結果、薩摩藩は攘夷が不可能なことを理解し近代化を急ぎ、また、イギリスは薩英戦争以降、薩摩側の兵力を高く評価しフランスに対抗する観点から幕府支持の方針を転換し、薩摩藩との関係を強めることとなる。この後長州も歴史舞台に顔を出し、巡るましく幕末の歴史は動いてゆくことになる。
さてその長州であるが、将軍徳川家茂の「1863年5月10日を以て攘夷を実行する」という上奏に従って、下関海峡で外国船に対して砲撃を開始する。これに対してアメリカやフランスの軍艦が長州砲台に攻撃を加え甚大な損害を与える。これが下関戦争の前段である。
更に長州は孝明天皇から攘夷実行の詔勅を得ようと画策していたため、薩摩や会津、一ツ橋慶喜らに妨害され文久3年8月18日(1863年9月30日)に朝廷から長州勢は一掃されてしまう。
しかし長州はその後も下関海峡を封鎖していたため、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合は、長州砲台群に猛攻撃を開始し、陸戦隊を上陸させ悉(ことごと)く砲台群を破壊し、内陸部まで侵攻し新式銃を駆使して長州軍を圧倒した。完敗した長州藩は高杉晋作を使者に立て、8月8日に講和談判を開始した。長州藩は連合軍の提示した五つの条件を全て受け入れて講和が成立した。
その条件とは、
1.下関海峡航行の自由
2.石炭、水、食糧などの必要品の売り渡し
3.船員の下関への上陸の許可
4.下関砲台の撤去
5.賠償金300万ドルの支払い
の5項目であった。これが下関戦争の後段にあたりこれらは「馬関戦争」とも呼ばれる。
(続く)