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日本近代化の流れ(4)

尊王攘夷派が実権を得た長州では、天皇のお墨付きを得ようと挙兵してしまい、1864年8月20日長州藩兵と会津桑名藩兵とが京都蛤御門付近で衝突する。しかし薩摩が会津に加担すると長州は敗退する。

 

これが蛤御門の変禁門の変であるが、長州が内裏や禁裏に向けて発砲したことを理由に朝敵とされ、以後、第1次、第2次長州征伐が行われる。

 

しかし日本を外国の侵略から守るためには、薩長が敵対している暇はない。土佐藩中岡慎太郎坂本龍馬などの活躍により、薩摩と長州は同盟を結ぶことになり、日本の近代化を推し進めることになる。

 

1866年3月7日(慶応2年1月21日)、薩長同盟が締結される。

 

この第2次長州征伐の最中、1866年8月29日(慶応2年7月20日)、将軍家茂は大阪城薨去している。

 

そのため将軍後見職(1862年・文久2年~)を務めていた徳川(一橋)慶喜が、家茂の後を継いで慶応2年12月5日1867年1月10日江戸幕府第15代将軍に就任する。

 

 

その直後、かねてより風邪気味であった孝明天皇はその病状を悪化させ、1867年1月30日(慶応2年12月25日)崩御される。その死因については諸説あるが天然痘を患ったと言うのが正確なものであろう。直ちに孝明天皇の第2皇子であられる「睦仁むつひと親王」が満14歳で践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐ)した。明治天皇である。

 

 

倒幕への流れが強くなる中、土佐藩の参政・後藤象二郎は「政権を朝廷に返還し広く人材を登用し議会政治を推し進める」、などと言う坂本龍馬発案の「船中八策」を、山内容堂に進言した。容堂はこれを妙案と考え、1867年10月29日(慶応3年10月3日)徳川慶喜に建白書として提出する。

 

 

これを受け、慶喜は政権の返上を決め1867年11月9日(慶応3年10月14日)明治天皇に対して統治権の返上を上奏する。天皇は翌日1867年11月10日(慶応3年10月15日)参内した慶喜大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立する。更に慶喜は、1867年11月19日慶応3年10月24日征夷大将軍職の辞職も朝廷に申し出る。

 

これにより倒幕の大義名分はなくなり、朝廷側に政権担当能力がまだついていなて中では、政権は実質的に徳川慶喜が維持することになってしまう。これを危惧した薩長岩倉具視たちは、1868年1月3日慶応3年12月9日岩倉具視らが参内し密かに画策し、御所内学問所において明治天皇による「王政復古の大号令」が発令されることになる。

 

内容は

 

1.徳川慶喜が申し出た将軍職辞職の勅許。

2.京都守護職京都所司代の廃止。

3.江戸幕府の廃止。

4.摂政・関白の廃止。

5.新たに総裁(1)、議定(10)、参与(20)の3職をおく。

 

 

というもので、「徳川慶喜の将軍職の辞職を勅許し、江戸幕府を廃止し、新たに新政府の役職を定める」というものでした。

 

いわゆる天皇親政の下で、岩倉具視ら一部の公家と薩長が主導する新政府を樹立・宣言する内容である。

(続く)