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日本近代化の流れ(8)

何はともあれ、明治維新では、天下の政権は幕府の独裁から朝廷に奉還され、貴族院衆議院の両院を設けて帝国議会を成立させ、万機を公論で決める仕組みの上で、天皇がこれを統治した。人材の登用もなり、幕府政治から近代化へと一大模様替えを図っていった。幕藩体制から政権が朝廷に奉還され其の運営は維新政府へと返還された。

 

その中心には天皇があった。天皇制があったからこそ明治維新が成就できたのである。古の神代の時代から連綿と継承されている天皇制があったればこそ、日本国全体が一致団結できたのである。天皇を頂点として、公卿、諸侯、一般民衆が日本国民として、まとまることができたのである。このことなくしては封建体制から明治近代化への脱皮は難しかったことであろう。

 

中国では「易姓革命」と言う文化があるため、中国の歴史の継続性はないに等しい。易姓革命とは、「天(あらた)めて、(か)わる」と言うことで、中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるのである。

 

その時に大虐殺が行われた。前政権に関与した人間はもちろんの事、その都の住民達も皆殺しにされている。これを現す言葉が「屠城」として中国語に存在する。いわゆる王朝が変わるたびに屠城と言う人民の虐殺が行われている。もっともひどい屠城を受けた都市のひとつが南京なのである。万人塚として骸骨が発掘されるのは、このときの虐殺の跡なのであり、日本軍の虐殺などは存在していないのである。

現代中国では、毛沢東による2,000万人とも3,000万人とも言われる大虐殺が行われている。日本にはこのような文化はない。

 

このように中国では政権の継続性が殆どなかったため、国民国家としてのまとまりが欠け、近代化が遅れた。そこを西洋諸国に突け込まれた。そのためそこからの影響を日本は、極端に恐れたのである。そこで日本は、支那のすばやい近代化を願って、留学生の受け入れや制度の移植などのあらゆる援助を惜しまなかったのである。

 

さて話を元へ戻そう。

 

西暦478年倭王武(雄略天皇南宋への上表文には次のように記されている。

昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。

 

このように日本を統一してゆき、もちろんその間紆余曲折はあったものの、現在の御皇室へとつながっていったのである。

 

ここに「渡って海北を平らげること95カ国」とあるのは、朝鮮半島にもその昔(神武天皇以降の時代)には、倭王の治める国があったことを示していることに注目する必要がある。

 

 

さて、1868年10月23日(明治元年・慶応・4年9月8日)に、明治改元の詔を発し、年号を「明治」と改め、慶応4年を1月1日よりさかのぼって明治元年とした。

 

明治新政府は、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗する為に、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指し、矢継ぎ早に改革を断行していったのである。

 

以後詳しくは小生のブログ「ヨーロッパと日本」(2008.10.9~12.10)を参照願う。

(続く)