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日本近代化の流れ(10)

既に豊島沖海戦は始まっていたがこのようなステップを経て、1894.8.1に日本は清国に宣戦を布告し、正式に日清戦争が開始される事となった。東学党1894.3.29に蜂起し全国的な内乱へ発展したため、日本は清国に対して朝鮮の近代化の内政改革を提案するも、清国はそれを拒否し極秘に派兵を続けていたため日本が堪忍袋の緒を切ったものである。

 

さてそこに至るまでの経過を、次に辿ってみる。朝鮮の覚醒を期待する日本が、日本国書受け取り拒否事件で、清国の朝鮮への影響を強く認識したものだが、更に直接清国と関わった事件は、牡丹社事件である。

 

 

2明治6年1873年、牡丹社事件と琉球処分台湾征伐と琉球の日本帰属確定

 

1609年(慶長14年)琉球薩摩藩の属国となり、明治の廃藩置県(1871.8.29)で琉球王国琉球藩となり藩主は華族となった(第一次琉球処分)が、清へも朝貢していた。

 

1871.12月に宮古島琉球王国への年貢船が遭難し台湾に漂着、69名中54名が台湾原住民に殺害されるという事件が起こる。その後も同様な事件が起き、日本政府は厳重抗議するが、清国は台湾は「化外の地」(統治の及ばないところ)として、受け付けなかった。

 

内外に台湾征伐論が高まったが派兵は決まらなかった。しかし台湾藩地事務都督に任命された西郷従道陸軍中将は、独断で征伐軍3,600名を出動させ、187463に事件発生地の牡丹社などを制圧し、占領を続けた。

 

これにより「日清両国互換条款」が調印され、清国は日本軍の出兵を義挙と認め、遭難民に対する見舞金10万テール、戦費賠償金40万テール、計50万テールを支払い、18741220までに征伐軍は撤退することとなった。これにより琉球民は日本人となり、琉球の日本帰属が国際的に認められることとなり、また台湾の清国帰属も認められた。そして1879(M12).4.4琉球藩を廃して沖縄県を設置した。これを「第二次琉球処分」と言っている。

 

そして日本政府は琉球に対して清との冊封朝貢関係を禁止したため、清は日本に抗議することになる。

 

 

3明治8年18759月、江華島事件勃発(日本軍艦の短艇江華島より砲撃される。

 

明治6年には大院君の日本侮蔑の布告を出すに及んで征韓論が盛んになったが、日本政府は交渉を続けていた。と言うのも当時ロシアが朝鮮に目を付けていたからであった。そして1875年(明治8年)5月に釜山で再度政府間交渉がもたれたが、その饗宴の儀で日本大使は隷属国並みの扱いを受けたため日本は軍艦を派遣したが、交渉はまとまらなかった。

 

軍艦2隻を派遣したのなら釜山を攻撃すべきだった。そうすれば次に説明するようにさらなる日本人の犠牲者を出さずに済んたかも知れない。

 

しかしその一隻「雲揚」が9月20日に首府漢城(ソウル)に近い江華島沖に投錨し、役人と面談するため端艇で江華島に向かったところその砲台から砲撃を受ける。そのため本艦に取って返し、9月21日砲台に接近し砲撃戦を開始する。そして第三と第二砲台を破壊する。翌9月22日には第一砲台を攻撃し占拠する。

 

日本軍は場内から大砲36門他多数の戦利品を手に入れ、翌9月23日に戦域から離脱する。そして1876年(明治9年)2月11日に交渉を開始し、2月27日日朝修好条規(江華島条約)が結ばれる。この条約は日本の安政の五カ国条約と類似しているが、最も特徴的で異なっている点は、その第1条(第一款)に「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国と認める。」とある。これは朝鮮が清国の藩属国であることを考慮して特に日本が挿入した一文である。日本は朝鮮を「自主の国」とすることで、清朝の介入をなくそうとしたのである。しかしそれでも朝鮮は清国の属国の地位に甘んずることを選択していた。清朝も朝鮮への冊封体制を強化し始めた。この清国の宗主権を否認することとなり、日清戦争のある意味直接的原因となるものである。そのため結局朝鮮を真に独立させることは、日清戦争を待たねばならなかった。

 

言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外交関係を築こうとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独立を認めても、清国をはじめ世界は朝鮮を清国の属国と認めていた。

(続く)