日本近代化の流れ(13)

7明治19年188681日、清国の日本威嚇と長崎事件勃発(清国北洋艦隊が日本に威嚇訪問、長崎に上陸した清国兵が交番を襲撃し双方に死傷者を出す。

 

清国海軍の北洋艦隊は、ロシアのウラジオストックを訪問した後、艦艇修理を名目に1886年(明治19年)8月1日長崎に入港させている。定遠鎮遠、済遠、威遠の4隻である。定遠鎮遠は、清国がドイツから購入した装甲戦艦で7,300トンの巨艦であった。その時の日本海軍の最大艦は、「高千穂」でその半分の3,700トンであった。これは明らかに清国の威嚇のための示威行動であった。更に8月13日には上陸した水兵達が遊郭で暴れだし警察官とお互いに抜刀して切りあう乱闘を起こし、双方に死傷者を出している。更に15日には、前日の士官の監督の下に上陸すると言う協定に反して300人の水兵が上陸し、武器を持ち交番を襲撃しそれぞれに死傷者を出している。

 

この清国の定遠鎮遠による砲艦外交に対抗する軍艦として、1888年に三景艦・松島、厳島、橋立(4,200トン級)を起工している。1892年(明治25年)4月に就役しているが、主砲は定遠30.5cmより大きい32cm巨砲一門の、非常に背伸びしたものであった。日清、日露戦争ではそれほどの働きは出来なかったという。

 

ちなみに1891年(明治24)には、定遠鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊の6隻が、一応親善目的で更に日本を訪問している。7月の横浜港には清国軍艦6隻のほか、日本の軍艦も6隻が停泊していた。その6隻を次に列挙する。

定遠(7,430t)、鎮遠(7,430t)、経遠(2,850t)、来遠(2,850t)、致遠(2,300t)、靖遠(2,300t)、

 

これに対して日本側は、

 

扶桑(3,718t)、高千穂(3,650t)、浪速(3,650t)、高雄(1,760t)、葛城(1,476t)、大和(1,476t)、であり日本人がこれを見て驚愕したであろうことは想像に難くない。

 

このように中国(清国)は、朝鮮では日本人婦女子を陵辱し多くの日本人を虐殺し、日本に対して威嚇を実行しているうえに、更に北洋艦隊を訪問させて日本を威嚇し続けていたのであった。清国の砲艦外交は清国兵の狼藉にもつながり、長崎事件をひきおこした。当然、日本人の反清感情は極限にまで高まっていた。そんな状況下で朝鮮に農民の反乱が発生した。

 

 

8明治27年1894329日、朝鮮に甲午農民戦争東学党の乱)が勃発(東学を信仰する農民たちが反乱を起こしたため、朝鮮は清国に援軍を要請する。中国は天津条約に反し無断で増援派兵したため日本は交戦状態に入る。豊島沖海戦1894.7.25

 

壬午軍乱の翌年の1883年頃から農民の反乱が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日全羅道朝鮮半島南西部)での民衆の反乱に対して、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして東学の弾圧を始めた。

 

西学(キリスト教)に対して東学とは民族宗教の一種で、瞬く間に農民に支持され各地に広がった。3月29日には東学党全羅道で蜂起し国政の改革を唱え、更に支持する農民を巻き込み全国的な内乱へと発展していった。政府軍はこの反乱を鎮圧することが出来ずに、閔氏政権は、清国に援軍を要請する。これを甲午農民戦争東学党の乱)と言う。

 

清国公使は日本外務大臣陸奥宗光に対して「朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する」旨6月6日に通告する。陸奥宗光は「朝鮮は清国の属邦とは認めず」と抗議し、駐清代理公使小村寿太郎は清国政府に「公使館保護のため日本軍も出兵する」ことを翌6月7日に伝える(天津条約に準じて通告)。

 

東学党と妥協した朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したため、日本は 清国に対して6月15日、「朝鮮の内政改革を日清共同で進める」旨の提案を行うも、清国はそれを拒否する。

 

更にイギリスが調停に乗り出し、ロシアは日本軍の撤退を要求する。7月9日清国はイギリスの調停案を拒否する。日本はロシアのこれ以上の干渉はないことを察知し、1894年7月11日清の調停拒否を非難し7月12日に閣議決定し、1894年7月14日最後通牒を通知して清との国交断絶を伝える。これに激怒した光緒帝(清国第11代皇帝)も7月14日開戦を決定する。

 

19日には日本から5日の猶予をもって朝鮮改革案の提起をせよと清国に迫っている。現地では、1894年7月25日には豊島沖の海戦が戦われており、8月1日に日清両国が宣戦布告する。

したがって日本側は朝鮮、清の回答待ちの状態であったため、陸奥宗光は「外交にありては被動者(受身)たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ」と回顧している。

(続く)