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日本近代化の流れ(15)

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日本の最後通牒とは、『豊島沖海戦http://ww1.m78.com/sib/hoto%20battle.htmlによると、次のように記述している。

豊島沖海戦は日本の宣戦布告8月1日以前の7月25日におきているのである。詳細にいえば、日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、この際(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告した(五日猶予付き最後通牒

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ちなみに7月14日の日本の最後通牒に接した李鴻章牙山の清軍平壌への海路撤退を命じたが、それが困難なため増援のために派遣した清国兵の一部を乗せていたのが高陞号であった。

その5日間とは7月19日から7月24日までの間なので、7月25日高陞号の撃沈は紛れもなくすでに戦争中のことなのであった。

 

かくして日清戦争は開始されたのである。次に日本軍進路図を示す。

 

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上図は『日清戦争http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html

の『営口の風俗』http://ww1.m78.com/sib/eikou.htmlより、引用しているが、今は削除されている。

 

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この豊島沖海戦が海上での日清戦争の最初の主要な戦いであったが、その陸戦は『成歓の戦い』(せいかんのたたかい)であった。またの呼び名を牙山の戦いと言い、この牙山こそ高陞号が清国兵を運び込もうとした先なのでであった。

 

1894年7月28日牙山を攻めるべく出発した日本軍のうち、混成第9旅団歩兵第21連隊は翌早朝3時20分に待ち伏せ攻撃を受け松崎直臣大尉他が戦死し、日本軍最初の戦死者となる。ラッパ手木口小平二等卒(初伝は白神源次郎一等卒であった。)も敵の銃弾に倒れ、死んでもラッパを放さなかった(と言う逸話が伝えられている)。これは「安城の渡しの戦い」である。日本軍は慣れない土地でしかも夜間行軍であったため、行軍中に不慮の死を遂げる兵たちもいた。事前準備が必要なことを痛感させた戦いでもあった。

 

清軍は戦闘には不利と判断し牙山より東北東18kmの有利な成歓駅周辺に主力部隊を配置していたが、日本軍は7月29日深夜左右から攻撃を仕掛け午前8時過ぎには敵拠点を制圧し、程なく牙山も占拠する。日本軍戦死者88人、清国軍死者500人前後と言う。

 

両軍のおおよその兵力は、清国軍3,800人、日本軍3,000人だったと言われている。ここに7月25日の高陞号の撃沈がなければ、清国軍は1,100人の増員と14門の大砲、更には大量の弾薬が追加供給されていたことになり、日本軍は大敗していたかも知れなかったのだ。天祐と言うべきか、と感謝の気持ちを忘れてはならないが、日本側は当然清国の出方を考慮して、連合艦隊を派遣していたので、ある意味高陞号(こうしょうごう)の撃沈は必然的な出来事であった。

 

(13)

1894年8月清国軍は平壌ピョンヤンに1万2千名の兵を終結させていた。日本軍混成第9旅団は9月15日に攻撃を開始した。午後遅く平壌城に白旗が上がる。これが『平壌の戦い』である。

(続く)