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日本近代化の流れ(17)

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日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。次の相手は清国北洋艦隊である。

 

しかし平壌の戦いの翌日1894年9月16日の夜中1時頃、陸兵4000人の輸送船団を護衛して、北洋艦隊が朝鮮平壌に向かった。1894年9月17日任務を終え鴨緑江河口付近にいた北洋艦隊と、索敵中の連合艦隊は夫々の煙でお互いを発見する。

 

北洋艦隊は戦艦「定遠」「鎮遠」を主力とする12隻、日本連合艦隊も「松島」「厳島」「橋立」の三景艦他3隻の本体と通報艦2隻、「吉野」「浪速」「高千穂」「秋津洲」の第一遊撃隊の高速巡洋艦など12隻。

 

日本艦隊は遊撃隊と本隊とに分かれ、高速を利用して北洋艦隊を挟み込む戦法を取り、北洋艦隊を追い詰めていった。そして戦闘開始30分で「超勇」「揚威」が沈没し、「済遠」が旅順に遁走してしまった。そして「致遠」も沈没する。日本本隊の旗艦「松島」も戦艦「定遠」「鎮遠」2隻の集中砲火を浴び、速射砲の大半が破壊された。そのうちに「経遠」が炎上、沈没そして「広丙」も沈没し、「定遠」「鎮遠」も多数の被弾を受けその戦闘能力を奪われていた。そして日没にまぎれて北洋艦隊は旅順港に逃げ込み黄海海戦は終了する。日本連合艦隊は、旗艦巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、仮想巡洋艦「西京丸」砲艦「赤城」の4隻が大破している。

黄海開戦鴨緑江海戦とも言う)はかろうじて日本軍の勝利に終わるも、日本連合艦隊の旗艦「松島」が大破したため追撃戦を断念している。「松島」の3等水兵の三浦虎次郎が「鎮遠」の砲撃に重症を負うも、「いまだ沈まずや定遠」と戦況を心配したという。これは軍歌『勇敢なる水兵』に一節である。そして明治天皇御自ら黄河の大捷』という詞を残している。

 

この結果、黄海をはじめ朝鮮近海の制海権日本側が掌中に入れ、日本から朝鮮への戦力の輸送をはじめ我が陸海軍の作戦は極めて有利に進むこととなった。

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そして、1895年4月17日、午後0時20分、下関の春帆楼での第6回会談で日清講和条約は記名調印された。これが『下関条約』であり、下関の通称だった「馬関」をとって馬関条約ととも呼ばれ、中国では現在でも「下関条約」のことを「馬関条約」と呼んでいる。

 

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下関条約の第1条は、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼は将来全くこれを廃止すべし。

となっており、朝鮮の独立を清国に認めさせるものであった。この貢献典礼等の廃止により、朝鮮からの中国への貢女(宮廷慰安婦の提供は禁止されたのである。

 

如何に日本が「朝鮮の独立を希求し、清国と戦ったか」と言う事が判るものである。

 

この結果一応朝鮮の清国からの独立が認められ、朝鮮は日本が保護することになり、ロシアなどの列強からの侵略からは防御できることになる。「眠れる獅子」の国・中国(清国)を破り、日本も国際社会へのデビューを華々しく飾ったのであった。

(続く)