日本近代化の流れ(18)

(3)日露戦争

 

(1)アロー号事件

 

ことの起こりは、1857~1860年に起こったアロー号事件に始まる。

 

アヘン戦争(1840)講和条約として締結された1842年の南京条約により、清国は香港をイギリスに割譲し、広東(広州)、厦門(アモイ)、福州、寧波(ネイハ)、上海の五港を開港することになり、更に治外法権などが設定された。これにより清国内での外国人排斥運動が盛んとなる。また北京での直接的な外交交渉が出来ないことに、英仏などは清朝に対してかなり不満を抱き、条約改正のために武力行使を決意していたが、それなりの開戦理由が見つからなかった。

 

そんな時にアロー号事件が起こる。アロー号はイギリス船籍の中国船であった。1856.10.8に広東に停泊していたアロー号を臨検した清国官憲が、海賊船と看做して中国人船員を拘束してイギリス国旗を引きずり下ろす事件が発生した。

 

このことを格好の理由としてイギリスはフランスを誘って185712月に開戦し、広東、天津を占領し清国を屈服させて天津条約を締結する。しかし批准のため天津の来た英仏の艦隊が、清の攻撃を受けたためいったん引き返し、1860年夏大艦隊で攻撃を開始し清国と再交渉を始めたが、使節団のうち11名が殺害されたため英仏連合軍は北京を占領し、更に捕虜殺害の報復として円明園を略奪・炎上させた。

 

このため1860.10~11にロシアが調停に入り、北京条約が締結された。この結果九龍半島南部をイギリスに割譲、英仏に賠償金の支払い、天津の開港、北京への外交官の駐留、キリスト教の布教、移民の公認(中国人を外国船などで使うため)などが定められた。

 

また調停に参加したロシアは、アムール川以北の広大な外満州地域ウスリー川以東の沿海州を、割譲させている。そして沿海州の南端、ウラジオストクに軍港を建設することになる。ウラジオストクとは「東方を支配せよ!」と言う意味である、ロシアの野心丸見えである。その証拠にウラジオストクは、ロシア太平洋艦隊の基地となっている。これにシベリア鉄道が繋がれば、ロシアにとっては鬼に金棒と言ったところである。

 

ウラジオストクを正確に言うとヴラジヴォストークと言い、ヴォストークは東、ヴラジとは領有・支配する、という意味だとWikipediaには書かれているが、1860に街の建設が開始され1900年には押しもされぬ軍港となっている。そして露仏同盟を結んでいた仏からの資金援助を得て1891シベリア鉄道の建設を進めている。

 

先にも言及したように(2016.11.24,NO.12)ロシアは、1878年には露土戦争で勝利したものの、バルカン半島エーゲ海への出口を失い、1881年には第2次アフガン戦争で負け、アラビア海への進出に失敗している。そのため必然的にロシアの南下政策沿海州や更には極東の満州、朝鮮、となるのである。

(続く)