日本近代化の流れ(20)

1900年6月20日からは、清国軍は義和団と共同して、北京外交施設へ攻撃を開始する。そして「北京籠城55日」が始まる。「北京の55日」は映画にもなっているのでご承知の方も多いと思われる。

 

8カ国は、連合軍を組織して北京を目指したが反撃されてしまう。そのため日本は第五師団・およそ8,000名を派遣し、福島安正少将(当時。陸軍大将で男爵)に指揮を執らせた。彼は英語、仏語、独語、露語、中国語に堪能で、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、各国語を駆使して調停役を務めた。現代の日本の官僚、政治家、自衛官も外国語を堪能に操る様でなければ、国威発揚は出来ないものと認識しなければならない。このような国家戦略が必要である。

 

日本は大軍を派遣するであろうロシアへの牽制と朝鮮半島の安定のためと、更には念願である不平等条約の改正を成し遂げなければならなかったので、列強側と協調した。

 

連合軍は天津を攻略し北京に向かうが、各国の思いが異なり、思うようには進まなかった。それでもようやく8月14日、連合軍は北京攻略を開始した。北京軍は、先の天津攻略で多数が失われ、戦意も萎えていたため翌日の8月15日には北京は陥落している。それからおよそ一年間の北京占領体制が続くこととなる。1900年6月20日から8月14日までの55日が「北京の55日」と言われ、北清事変または義和団の乱と言われる戦乱である。

 

一方この籠城戦では、柴五郎砲兵中佐が指揮をとり、籠城成功に多大な貢献をしている。彼なくしてこの55日の籠城は成し遂げられなかった、といわれ各国から賞賛されている。

 

 

北京が陥落すると清朝は態度を180度転換し、8月20日には義和団を「挙匪」または「団匪」と呼び反乱軍とした。そのため「扶清滅洋」を旗印にしていた「義和団」は、清朝に失望し「掃清滅洋」に変えざるを得なかった。

 

1900年7月には義和団はロシアのブラゴヴェシチェンスク(中国語で海蘭泡)も2週間にわたり占領する。ロシア軍コサック兵は、7月16日、居住する中国人を追い出し約3000人以上を虐殺している。そして更に軍を南に進め東三省を占領してしまう。この結果この時期に清国人約2万5千人がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、筏のように川を下っていったと言う。東三省とは、現在の遼寧省吉林省黒龍江省の三省であるが、いわゆる満州のことである。満州は清を建国した後金のヌルハチの出身地なのである。しかしロシアはひそかに朝鮮への進出を狙い、その東三省に居座り続けることになる。そのため三国干渉以来高まっていた反ロシア感情はいやが上にも高まり、日本の警戒感を高めることになり、日露戦争への導火線となってゆく。

 

 

8カ国連合軍に負けた清朝は、過酷な賠償金を課せられた「北京議定書」を結ばざるを得なかった。1901年9月7日に北京で調印されたこの条約は、中国では「辛丑条約(しんちゅう)」とも言われている。

 

この議定書は、清朝の拒否は一切認められなかった。そして公使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めると言ったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。このような厳しい内容は、列強が義和団の乱再発を恐れたためのものであった。丁度大東亜戦争に負けた日本が、憲法9条のような悪法を押し付けられた状況に似ている。

(続く)